伝記
ローベルト・ムージルは、1880年11月6日にオーストリアのクラーゲンフルトで生まれた小説家、劇作家、エッセイストである。未完の長編『特性のない男』は、ジョイスの『ユリシーズ』やプルーストの『失われた時を求めて』と並んで、20世紀前半の文学を代表する作品とみなされている。家系はチェコから移住した家で、姓の発音はムシル、ムジールなどさまざまだが、日本ではドイツ語読みのムージルでおおむね定着している。父アルフレートは機械工学の技術者で、専門学校の校長を経て、1890年からブリュン工科大学の教授となり、1917年に世襲貴族の称号を与えられた。母ヘルミーネはオーバー・エースターライヒ州の出身で、その祖父も有名な技術者であった。
幼少期は、父の転任に従って、ボヘミアのコモタウやシュタイアーで過ごした。幼いころから読み書きは特別な体験で、ドイツ語の作文では、その長大さと巧みな見解、豊かな描写が教師を驚かせた。1891年に一家はブリュンへ転居した。そこで二歳年上の友人グストゥル・ドーナトから性に関する知識を得るなど早熟な少年で、反抗的だったため、両親、とりわけ母との衝突と「ナポレオン的」なものへの憧れから、アイゼンシュタットの陸軍初等実科学校へ進み、さらにメーリッシュ・ヴァイスキルヒェンの陸軍上級実科学校で学んだ。この寄宿の経験は、処女作『士官候補生テルレスの惑い』(1906年)の下地となった。やがて機械工学に転じてブリュン工科大学に入学し、日記をつけ始めた。ニーチェ、ノヴァーリス、ドストエフスキー、エマソン、メーテルリンク、アリストテレスの『詩学』などを読み、1899年に最初の原稿を書き上げた。
その後、再び哲学に転じ、ベルリン大学でエルンスト・マッハの研究により1908年に博士号を取得した。しかし結局は、すでに『テルレス』で踏み出していた作家の道を選んだ。1905年には日記に『特性のない男』の草案を書いている。短編集『合一』(1911年)、戯曲『夢想家たち』(1921年)、『三人の女』(1924年)、『生前の遺稿集』(1935年)などを発表し、客観的で透徹した認識を保ちながら、理性や言語を超えた神秘的な世界を追求した。小説は寡作だったが、多数のエッセイを発表し、1910年代から30年代にかけて積極的にジャーナリズムにも関わった。1919年に『特性のない男』に本格的に取り組み始めた。
唯一の長編にして未完の大作『特性のない男』は、第一次世界大戦直前のウィーンを舞台にした作品で、1930年に第1巻がローヴォルト社から5,000部出版された。1931年に再びベルリンへ移ったが、1933年のナチスの政権奪取後はウィーンに戻り、1938年にはスイスに亡命した。この時、彼の書物は発禁処分を受けた。最後はジュネーヴでこの大作の完成に心血を注いだが、1942年4月15日、シャワー室で脳卒中のため急死した。
生前は無名の作家ではなかったが、寡作であったこと、作品が必ずしも大衆的でないこと、主著がナチスの禁書目録に載ったことなどから、一時は忘れられた。1949年10月にロンドンのタイムズ文芸付録が、「今世紀前半のドイツ語圏の最もすぐれた小説家は、私たちに最も知られざる小説家の一人である」と紹介したのを契機に、アードルフ・フリゼー編の三巻本全集(1952〜57年)が出るなど、世界各国で研究と翻訳が盛んになった。
同じ年に亡くなった人物
- フリッツ・トート (1942年没)
- ヘンリー・ブラッグ (1942年没)
- イヴァン・ビリビン (1942年没)
- アルフレート・フラトー (1942年没)
- ヴァルター・フォン・ライヒェナウ (1942年没)
同じ地域に関係する人物
- ロドルフ・クレゼール (1831年没)
- ローラン・プティ (2011年没)
- アリー・カーフィー (2013年没)
- ヨーゼフ・クリップス (1974年没)
- ディヌ・リパッティ (1950年没)