HISTORICAL PERSON · 1942年没

L・M・モンゴメリ

カナダの小説家。『赤毛のアン』の作者で、これを第一作とする「アン・ブックス」で知られる。英系カナダ文学の草分けで、日本で最初に訳書が出たカナダ文学者でもある。

生涯
1942年没
死亡地
カナダ(オンタリオ州 / トロント)
出生地
カナダ(プリンスエドワードアイランド州)
出典
世界地図
カナダ(オンタリオ州)

伝記

ルーシー・モード・モンゴメリは、1874年11月30日、カナダ東部のプリンス・エドワード島のクリフトン(現在のニューロンドン)に生まれた小説家である。『赤毛のアン』の作者であり、本作を第一作とする「アン・ブックス」で知られる。英系カナダ文学の草分け的な存在で、日本で最初に訳書が出たカナダの文学者でもある。父方の祖父はカナダの上院議員で、首相ジョン・A・マクドナルドとも友人だった。母クララは、彼女が生後21か月のときに結核で亡くなり、父ヒュー・ジョンは西部へ移住したため、キャベンディッシュの農場に暮らす母方の祖父母に、厳しく育てられた。マクニール家は文才に恵まれた一族で、祖父の詩の朗読や叔母たちの物語を聞いて育ったが、保守的な祖父、口うるさく支配的な祖母、欠点をあげつらう親族は嫌っていた。

1890年、15歳のころに、父と継母と暮らすためサスカチュワン州のプリンス・アルバートに送られたが、1年後に祖父母の家へ戻った。継母からは子守りと家事を命じられて、勉強したいという夢を打ち砕かれたが、この時期に書いた詩やエッセイが新聞に載り、作家を目指すきっかけとなった。1893年にキャベンディッシュで中等教育を終えると、シャーロットタウンのプリンス・オブ・ウェールズ・カレッジに進んだ。2年分の科目を1年で終えて、1894年に一級教員の資格を得た。1895年から翌年にかけて、ハリファックスのダルハウジー大学で聴講生として文学を学んだ。1897年にまたいとこのエド・シンプソンに求婚されて婚約したが、のちに破局している。

島のさまざまな学校で教師を務め、1898年に祖父が亡くなると、未亡人となった祖母と暮らすためキャベンディッシュに戻った。祖父は地元の郵便局長だったため、その仕事を引き継いだ。1901年から1902年の短期間はハリファックスの新聞社で記者兼雑用係を務め、祖母の世話のために再びキャベンディッシュへ戻った。このころ、雑誌向けの短編作家としてすでに経歴を重ねていたが、最初の長編を書く気になった。1902年から教師イーフレイム・ウィーバー、1903年から新聞記者ジョージ・ボイド・マクミランと文通を始め、どちらも40年以上続いた。

気難しい祖母との辛い暮らしの中で、相談相手となった長老派教会の牧師ユーアン・マクドナルドと、1906年に婚約した。1908年に最初の長編『赤毛のアン』を出版すると、世界的なベストセラーとなる。祖母の死の直後の1911年7月11日に結婚し、スコットランドへの新婚旅行ののち、オンタリオ州のリースクデールに移り住んだ。その牧師館で続く11冊の本を書き、3人の男子をもうけた。1914年に死産した子もいる。1926年にノーヴァルへ、1935年にはトロントへ移り、同年にフランス芸術院会員となり、大英帝国勲位も受けた。夫は学生時代のうつ病が結婚後8年目に再発し、生涯治らなかった。夫の病名を隠して看護を続けるうち、晩年は心労が重なり、自身も神経を病んだという。

1942年4月24日、トロントで亡くなった。『アンの想い出の日々』を書き上げた直後であったという。死因は長く冠状動脈血栓症とされてきたが、2008年に孫娘のケイト・マクドナルド・バトラーが、薬物の過剰摂取による自殺だったと公表した。伝記作者の中には異論もある。葬儀の後、キャベンディッシュの墓地に葬られた。生前に20冊の小説と2冊の短編集を書き、『赤毛のアン』は40か国語に翻訳された。日本では1952年に村岡花子が翻訳・紹介し、1979年にはテレビアニメとなった。

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