伝記
亀山天皇は、日本の第90代天皇である。1249年に生まれ、諱は恒仁という。後嵯峨天皇の第七皇子で、母は中宮の西園寺姞子(大宮院)にあたり、皇后の腹では兄の後深草天皇に次ぐ次男だった。父母から深く愛され、兄を差し置いて治天の君となったことが、のちに亀山の系統の大覚寺統と後深草の系統の持明院統が対立する発端となった。
1258年、飢饉の最中に10歳で皇太子に立てられ、翌1259年に兄の後深草天皇から譲りを受けて即位した。父の後嵯峨上皇や母の大宮院の意向があったとされる。1265年には元のクビライからの国書が高麗を通じて届き、幕府は元に備え、朝廷は神社に異国降伏を祈願した。1266年には、鎌倉の将軍だった異母兄の宗尊親王が鎌倉から送り返され、代わりにその嫡男の惟康王が将軍となった。1267年に皇后の洞院佶子が皇子の世仁(のちの後宇多天皇)を産み、後嵯峨上皇の意向によって翌年に皇太子となった。1272年に後嵯峨法皇が没すると、治天の君の継承が問題となった。法皇は指名を幕府に求める遺勅を残したとされ、幕府が内意を問い返すと、大宮院が証言した法皇の内意は後深草上皇ではなく亀山天皇だったため、亀山の親政が定まった。
1274年1月、亀山天皇は世仁親王に譲位して院政を始めた。院評定制の改革に取り組み、一定の成果を上げて「厳密之沙汰」「徳政興行」と評された。同じ1274年の元寇で炎上した筥崎宮の社殿の再興にあたっては、敵国降伏の宸筆を納めた。1281年の二度目の元寇のころにも、自ら伊勢神宮と熊野三山で祈願するなど積極的に動いた。一方で、自らの大覚寺統の繁栄に力を注いだため、後深草上皇は尊号の辞退と出家の意向を示した。幕府は持明院統の冷遇を危惧し、1275年に後深草の皇子の熙仁(のちの伏見天皇)が亀山の猶子となって皇太子に立った。1283年に安嘉門院が没すると、亀山は幕府に使者を送って裁定を受け、遺領の八条院領を半ば強引に相続した。この領地はのちの大覚寺統の主な経済基盤になった。
しかし、関東申次の西園寺実兼との不和や、霜月騒動で滅んだ安達泰盛との親しさが幕府を刺激し、1287年10月に幕府の要請で後宇多天皇に代わって伏見天皇が即位した。後深草上皇の院政が始まり、亀山は総領の権利を奪われた。1289年には伏見の皇子胤仁親王(のちの後伏見天皇)が2歳で皇太子となり、絶望した亀山は9月に南禅寺で出家して法皇となった。法名は金剛源で、禅宗に帰依し、公家の間にも禅宗が広まっていった。1290年には、伏見天皇の暗殺未遂事件の浅原事件が起こり、伏見と西園寺公衡は亀山が背後にいると主張したが、後深草法皇は退け、亀山も幕府に関与を否定する起請文を送って、幕府は深入りしなかった。その後、幕府に働きかけた大覚寺統が勢力を盛り返し、1301年には後宇多の第一皇子の後二条天皇が即位した。
亀山法皇は、笛、琵琶、神楽、朗詠などさまざまな芸能に通じた。1302年には大甥の後伏見上皇の願いで蹴鞠を、翌年には朗詠を伝授している。1305年9月、孫の後二条天皇の治世に亀山殿で没した。57歳だった。遺詔で、当時3歳の末子恒明親王を皇太子に立てる意思を示したため、後宇多上皇の強い反発を招き、大覚寺統の内部は混乱した。
同じ年に亡くなった人物
- ヨハネス4世ラスカリス (1305年没)
- ブランシュ・ド・フランス (オーストリア公妃) (1305年没)
- モーシェ・デ・レオン (1305年没)
- ヴァーツラフ2世 (ボヘミア王) (1305年没)
- ニコーラ・ダ・トレンティーノ (1305年)
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