伝記
与謝野晶子は、1878年(明治11年)12月7日、堺県和泉国(現在の大阪府堺市)で、老舗の和菓子屋「駿河屋」を営む鳳宗七と津祢の三女として生まれた歌人、作家、思想家である。本名は志やう。家業は没落しかけており、3人目の女の子だったため、両親から疎まれて育ったという。兄には、のちに電気工学者となる鳳秀太郎がいる。9歳で漢学塾に入り、琴や三味線も習った。堺女学校に進むと『源氏物語』などの古典に親しみ、兄の影響で、紅葉、露伴、一葉などの小説を読むのが一番の楽しみだった。16歳のときには、『文芸倶楽部』に鳳晶子の名前で投稿した短歌が載った。
20歳ごろから店番をしながら和歌を投稿し、1900年(明治33年)に浜寺公園の旅館で行われた歌会で、歌人の与謝野鉄幹と出会い、深い関係になった。鉄幹が創立した新詩社の機関誌『明星』に短歌を発表し、翌年に家を出て東京に移った。女性の官能をおおらかに詠う処女歌集『みだれ髪』(1901年)を刊行し、浪漫派の歌人としてのスタイルを確立した。女性が自我や性愛を表現するなど考えられなかった時代であり、伝統的な歌壇からは反発を受けたが、世間の耳目を集めて熱狂的な支持を得た。のちに鉄幹と結婚し、12人の子を産んでいる。
1904年9月、日露戦争の旅順攻囲戦に従軍していた弟を嘆いて、『君死にたまふことなかれ』を『明星』に発表した。第3連の「すめらみことは戦いに おおみずからは出でまさね」を、大町桂月が「国は亡びてもよし」と言うに等しいと批判すると、晶子は「歌はまことの心を歌うもの」と反論した。桂月はさらに『太陽』で激しく非難したが、夫の鉄幹と平出修の直談判により、「乱臣賊子」の語を取り下げて論争は収まった。1911年には、史上初の女性文芸誌『青鞜』の創刊号に、「山の動く日きたる」で始まる詩を寄せた。
1912年、鉄幹の後を追ってパリへ向かった。渡航費の工面は森鴎外が手助けした。シベリア鉄道経由で5月19日にパリに着き、約4か月、イギリスやドイツなどを巡った。帰国後は、女性の自立を説く評論活動に力を入れ、母性を中心に国家の補助を求める平塚らいてうらとは、「婦人は男子にも国家にも寄りかかるべきではない」と母性保護論争を行った。1921年(大正10年)には、西村伊作、石井柏亭、鉄幹らとお茶の水に文化学院を創設し、日本で初めての男女共学を成立させ、学監として女子教育にあたった。鉄幹の収入があてにならなかったため、来る仕事はすべて引き受けて家計を支え、残した歌は5万首にも及ぶ。
『源氏物語』の現代語訳にも取り組んだ。34歳で『新訳源氏物語』を出したが、不備が多いと考え、やり直して書き上げた原稿は、関東大震災で灰になった。もう一度書き直し、17年をかけて『新新訳源氏物語』を完成させ、1938年10月から翌年9月にかけて刊行した。満州事変以降は戦争を鼓舞する歌も詠み、反戦の人としては一貫性がなかったとの指摘もある。1940年5月に脳出血で右半身不随となり、1942年(昭和17年)5月29日、狭心症に尿毒症を併発して、荻窪の自宅で亡くなった。65歳であった。葬儀では高村光太郎が弔辞を読み、堀口大學が挽歌を捧げた。墓は多磨霊園にあり、堺市の覚応寺では、命日に白桜忌の法要が営まれている。
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