伝記
ルドルフ1世は、ハプスブルク家出身のボヘミア王で、ポーランド王の称号も帯び、オーストリア公としてはルドルフ3世と呼ばれる人物である。1281年ごろ、オーストリア公アルブレヒト1世と、ゲルツ・ティロル家出身の妃エリーザベトの長男として生まれた。祖父はドイツ王ルドルフ1世で、弟にはフリードリヒ美王、レオポルト1世、アルブレヒト2世、オットーがいる。長い争いの末に父が1298年にドイツ王に選ばれると、16歳のルドルフはハプスブルク家の世襲領の共同統治者とされ、同じ年からオーストリア公とシュタイアーマルク公になった。ラインフェルデン条約により、弟のフリードリヒ美王とレオポルト1世のために摂政も務めた。
1300年5月25日、アルブレヒト1世はフランス王フィリップ3世の娘ブランシュとの結婚を取り決めた(結婚は1298年とも1300年ともされる)。しかしこの結婚は実を結ばなかった。二人の子は生まれてすぐ、あるいはまもなく世を去り、ブランシュ自身も1305年に、おそらく流産か早産のあとで亡くなった。ルドルフは1304年、ハンガリーの王位を息子ヴァーツラフ3世に就けていたボヘミア王ヴァーツラフ2世への遠征に、父に従って加わった。
1306年、ボヘミアのプシェミスル朝最後の君主ヴァーツラフ3世が殺されると、アルブレヒト1世はこの王国を、跡継ぎが絶えた封土として取り上げ、ルドルフをボヘミア王に据えた。これに異を唱えたのが、ルドルフの母方の叔父で、ヴァーツラフ3世の妹アンナの夫であるケルンテン公ハインリヒである。ボヘミア貴族の一部がハインリヒを王に選ぶと、アルブレヒト1世は義弟を帝国追放に処してプラハへ軍を進め、ハインリヒはバイエルンへ、のちにケルンテンへ逃れた。ハプスブルク家のボヘミアとポーランドに対する権利をさらに固めるため、アルブレヒトは1306年10月16日、ルドルフをヴァーツラフ2世の未亡人エリシュカ(リクサ・エルジュビェタ)と結婚させた。
ルドルフは、胃腸の不調ではなく倹約を理由に、「粥王」とあざけられた。ボヘミア貴族の一部は彼を認めず、ハインリヒを支持し続けた。クトナー・ホラの銀鉱床を押さえようとしたことが、ストラコニツェ家の貴族に率いられた反乱を招いた。ルドルフは反乱側のホラジュジョヴィツェ要塞を包囲したが、1307年7月3日から4日にかけての夜、陣中で亡くなった。死因は赤痢とも、おそらく消化管の穿孔ともいわれる。遺体はプラハの聖ヴィート大聖堂に葬られた。
ルドルフには生き残った子がなく、ハプスブルク家によるボヘミアの王冠の最初の獲得は失敗に終わった。エリシュカがルドルフの死後に男児を産んだとする記録も一つあるが、本当なら生後まもなく世を去ったとみられ、ハプスブルク家が王位を求めることはなかった。ルドルフの即位はハプスブルク家内部の相続争いを激しくし、1308年に父アルブレヒト1世が甥のヨハン・パリツィーダに暗殺される結果を招いた。ボヘミア貴族は特権状と引き換えにハインリヒを王に戻したが、ハインリヒも3年ほどのちにはルクセンブルク伯ヨハンに王位を譲らされた。
同じ年に亡くなった人物
- レヴォン4世 (1307年没)
- カトリーヌ・ド・クルトネー (1307年没)
- クトルン (1307年)
- エドワード1世 (イングランド王) (1307年没)
- テムル (1307年没)
同じ地域に関係する人物
- カシュパル・マリア・シュテルンベルク (1833年没)
- ヨセフ・カイェターン・ティル (1856年没)
- アルフレート3世・ツー・ヴィンディシュ=グレーツ (1927年没)
- ヤロスラフ・クシーチカ (1969年没)
- エドゥアルト・ターフェ (1909年没)