伝記
後二条天皇は、1285年3月9日に生まれた、日本の第94代天皇である。諱は邦治といい、大覚寺統に属する。後宇多天皇の第一皇子で、母は太政大臣堀川基具の養女で実の孫にあたる基子(西華門院)である。のちに即位する後醍醐天皇の異母兄にあたる。1286年10月25日に親王宣下を受け、1298年6月27日に冷泉万里小路殿で元服した。同じ年の8月10日に、持明院統の後伏見天皇の皇太子となった。
大覚寺統と持明院統は皇位継承をめぐって対立を続けていた。邦治親王の立太子が実現した背景には、祖父の亀山法皇が幕府に強く働きかけたことがあった。伏見天皇と後伏見天皇と、持明院統の天皇が二代続いたことを、大覚寺統は後嵯峨上皇の遺詔に反する決定として、幕府に不服を申し立てたのである。1301年1月21日(西暦3月2日)、後伏見天皇の譲位を受けて践祚し、同じ年の3月24日に即位した。この即位は、鎌倉幕府が朝廷に治天と天皇の交代を求めたことで実現した。半世紀以上にわたって両統迭立を重ねてきた結果、即位ののち3年半にわたって、後深草院、亀山院、後宇多院、伏見院、後伏見院という史上最多の5人の上皇が同時に存在することになった。即位に際しては、父の後宇多上皇による院政が実現した。当時は南北朝分裂への過渡期にあたり、「天の下の人、又押し返し、一方に靡きたる程も、さも目の前に移ろひ変はる世の中かな」と嘆かれる時世であった。
在位中の天皇は、歌会や歌合を催すことが多かった。1303年には後二条院歌合を催し、1305年には、自ら『後二条院御集』(原題『愚藻』)を撰んでいる。また後宇多上皇の院宣を受けて勅撰集『新後撰和歌集』の撰進が行われたが、これは大覚寺統による支配の正統性を誇示する政治的な行為でもあった。中宮は徳大寺公孝の娘忻子(長楽門院)であった。皇子には、のちに後醍醐天皇の皇太子となる第一皇子の邦良親王や、花町宮家の始祖となる第二皇子の邦省親王らがいた。
1308年8月、天皇は病を得て、同月25日(西暦9月10日)、在位7年で、二条高倉皇居で崩御した。宝算は24であった。同27日に二条院の加後号として、後二条院と追号された。翌28日、北白川殿で火葬され、そのまま陵となった。陵は京都市左京区の北白河陵に治定されている。中世に荒廃したが、元禄の探陵の時にこの地が陵に擬定され、幕末に修補が加えられた。分骨所は父の後宇多天皇の蓮華峯寺陵内にある。
天皇が若くして亡くなった時点で、大覚寺統の嫡流を継ぐべき皇子の邦良親王は、わずか9歳であった。このため、大覚寺統と持明院統が交互に皇位を継ぐという幕府裁定の原則は崩れ、天皇の異母弟の後醍醐天皇が中継ぎとして即位することになる。後宇多天皇は置文で、後醍醐天皇は中継ぎにすぎず、後二条天皇の嫡流こそが大覚寺統を継ぐべきだと厳しく指摘したという。
同じ年に亡くなった人物
- ギヤースッディーン・マスウード2世 (1308年)
- 忠烈王 (1308年没)
- インドラヴァルマン三世 (1308年)
- Clare of Montefalco (1308年)
- Guy II de la Roche (1308年)