伝記
ヘンリク3世は、1251年あるいは1260年に生まれ、1309年12月に没したグウォグフ公である。グウォグフ公コンラト1世の長男で、母はヴィエルコポルスカ公ヴワディスワフ・オドニツの娘サロメアである。幼少期はほとんどわからず、1267年に曾祖母ヤドヴィガの列聖式に参列したことが知られるだけである。1274年に父が死んだときは未成年であったが、その年からグウォグフ公となった。
政治の場に初めて現れたのは1277年で、母方の従兄にあたるヴィエルコポルスカ公プシェミスウ2世とともに、父方の伯父レグニツァ公ボレスワフ2世へ遠征した。ボレスワフ2世がローマ王ルドルフ1世と結んで、従兄のヴロツワフ公ヘンリク4世を捕らえ幽閉していたためで、ヘンリク3世とボヘミア王オタカル2世は救出のための同盟軍を組織した。しかし4月24日のストレツの戦いで敗れた。1278年8月26日にはマルヒフェルトの戦いに加わり、オタカル2世の大敗と戦死に立ち会った。同じ年、弟たちに領土を分けることを余儀なくされ、自身はグウォグフなどの主要都市を保った。1281年には、ヘンリク4世にソンドヴェルの諸公会議に招かれて逮捕されたが、忠誠を誓わされて解放された。その後は弟プシェムコとともにヘンリク4世と協力し、1288年にはヘンリク4世から騎士に叙任された。
1290年6月23日、子のないヘンリク4世が32歳で急死し(毒殺されたともいう)、遺言でヘンリク3世が相続人に指名された。ところが1か月後、ヴロツワフの騎士や市民は彼を追い出し、レグニツァ公ヘンリク5世を迎えた。理由はよくわからないが、ヘンリク3世の過酷な統治が決定的だったようだという。短期間は復権したが、ヘンリク5世に敗れて係争中の十の町への要求を放棄した。1291年3月にはブラウンシュヴァイク=リューネブルク公アルブレヒト1世の娘メヒティルドと結婚し、ヴェッティン家やプシェミスウ2世と同盟を固めた。1293年11月11日、ヘンリク5世がルトカという人物に捕らえられてヘンリク3世に引き渡されると、半年近く鉄の籠に閉じ込め、町と銀3万グジヴナを払わせて解放した。
1296年2月8日、前年にポーランド王として戴冠したプシェミスウ2世が暗殺されると、ヘンリク3世は自分こそ唯一の相続人だと主張し、クヤヴィ公ヴワディスワフ1世と争った。3月10日のクシヴィンの取り決めで、領有できるのはオブラ川以南に限られた。1299年3月、イタリアで司教に選ばれた弟コンラト2世のジャガンを接収し、同年8月23日にはクレンカで、ヴィエルコポルスカに対する要求権を永久に放棄すると誓約した。コンラト2世が帰国しても公国を返さなかったため、ヴロツワフ司教ヤン・ロムカに破門されたが、1300年4月24日に紛争は司教側の勝利で終わった。それでも1301年には「ポーランド王国の相続者」という称号を名乗った。1304年にコンラト2世が亡くなるとジャガンを取り戻し、1305年から翌年にプシェミスル朝が断絶すると、1306年春にグダニスク方面まで進んでヴワディスワフ1世を退け、1307年にカリシュを掌握して、ヴィエルコポルスカ全域を支配下に置いた。
戦争を領国に持ち込まなかったため、公国は経済的に発展し、グウォグフは富の集まる都市となった。行財政改革を行い、10以上の都市を建設し、修道院や教区教会の築造にも気前よく後援した。1309年に死去し、ルビョンシュのシトー会の教会に葬られた。5人の息子は父の遺領を分割して相続し、これがグウォグフ公国の弱体化につながったという。
同じ年に亡くなった人物
- マスター・ジェイムズ (1309年没)
- ラデン・ウィジャヤ (1309年)
- ムハンマド・イブン・アリー・イブン・タバータバー (1309年)
- ボギスラフ4世 (ポメラニア公) (1309年没)
- ナリク (1309年没)
同じ地域に関係する人物
- フランツ・ルートヴィヒ・フォン・デア・プファルツ (1732年没)
- クリスチャン・アウグスト2世 (1869年没)
- ヴィルヘルム (ブラウンシュヴァイク公) (1884年没)
- ルートヴィヒ・ヨルク・フォン・ヴァルテンブルク (1830年没)
- アルベルト (ザクセン王) (1902年没)