伝記
ムザッファル・バイバルスは、バイバルス・アル=ジャーシンキール、あるいはバイバルス2世とも呼ばれる、マムルーク朝の第14代スルターンである。即位名はアル=マリク・アル=ムザッファル・ルクン・アッディーンといった。「ジャーシンキール」という名は、スルターンの食事の毒見役を意味する。「バイバルス」はトルコ・モンゴル系の名で「首長に選ばれた者」の意味、「ムザッファル」は「勝利の王」、「ルクン・アッディーン」は「信仰の柱」を意味する尊称とされる。生年は分かっていない。
バイバルスはチェルケス人のマムルークで、ブルジー・マムルークの出身である。スルターンのカラーウーンに仕えた奴隷兵であり、その息子のアシュラフ・ハリールやナースィル・ムハンマドの宮廷にも仕えた。アミールとなり、さらに毒見役の地位についた。ナースィル・ムハンマドの第2治世の1299年から1309年にかけては、副スルターンを務めたという。ムハンマドは1299年に二度目のスルターンとなったとき、まだ十四歳ほどで、バイバルスとサイフ・アッディーン・サラールの二人のアミールの後見を受けていた。1300年には、先のスルターンのキトブガを復位させようとするオイラトの人々の陰謀を封じたとされる。1302年にはサラールとともに上エジプトのベドウィンの反乱を鎮圧し、1303年にはクトゥルグ・シャー率いるモンゴル軍を破ったシャクハブの戦いで、エジプト軍の指揮官の一人となった。1304年には、自らの命でクルアーンの写本を作らせてもいる。
後見の二人は、最低限の食事や日用品さえ与えずにムハンマドを冷遇した。これを知ったカイロの民衆がスルターンの待遇改善を求めてデモを起こすと、ムハンマドはこの機に二人を倒そうとしたが、計画は漏れて、二人は監視を強めた。バイバルスたちとチェルケス系のブルジー・マムルークの間にも対立が起きた。政争に嫌気がさしたムハンマドは、メッカ巡礼に出ると言って旅立ち、カラクに着くと、巡礼を続けないと告げて退位を宣言し、そこに留まった。時期は1308年とも1309年ともいわれる。バイバルスたちが戻るよう懇願しても聞き入れられなかった。空いたスルターンの座には、まずサラールが推されたが、ブルジー・マムルークの反対で辞退し、代わりにバイバルスを推して妥協が成った。
1309年にバイバルスは即位したが、在位は10か月と24日にとどまった。治世の初めには、天災でナイル川の水量が減って物価が高騰し、食糧を求める民衆が政府に抗議した。貧しい民衆は街で暴れ、彼を「ルクン(柱)」ではなく「ラキーン(役立たず)」と呼んで、ナースィル・ムハンマドの帰還を求めた。バイバルスは襲撃から身を守るため、チェルケス系のマムルークを護衛として買い入れたが、将軍たちは人事に不満を抱いた。将軍にはカラクのムハンマドを支持する者も多く、バイバルスはムハンマドに所有するマムルークと輜重の引き渡しを要求したが、拒まれた。ムハンマドは、バイバルスに反感を持つシリア各地の太守を味方につけて、カラクで挙兵した。ムハンマドがダマスカスに入城し、カイロの将校にも支持に回る者が増えると、バイバルスはサラールら側近と相談の上、王位を明け渡して助命を嘆願した。
ムハンマドが即位したのち、バイバルスはシリアへ逃れようとしたが失敗し、獄中で殺害された。ムハンマドの目の前で絞め殺されたともいわれる。サラールも逮捕されて財産を没収され、飢えて死ぬに任された。バイバルスが建てた修道院は、カイロで有数の規模とワクフ(寄進地)を持っていた。
同じ年に亡くなった人物
- Athanasius I of Constantinople (1310年)
- ベアトリス・ド・ブルゴーニュ (ブルボン女領主) (1310年没)
- Amalric, Lord of Tyre (1310年)
- スンバト (1310年没)
- マルグリット・ポレート (1310年没)
同じ地域に関係する人物
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- ムハンマド・フセイン・タンターウィー (2021年没)
- エイシャ・エル・タイムリヤ (1902年没)
- ブトロス・ガーリー (1910年没)
- サアド・ザグルール (1927年没)