HISTORICAL PERSON · 紀元前1150没

セトナクト

第20王朝の創始者。出自不詳ながら王位に就き、前王家の女王タウセレトと並立した可能性がある。カルナックのアメン大神殿建設に着手した。

生涯
紀元前1150没
死亡地
—
出生地
エジプト・アラブ共和国(シャルキーヤ県 / ペル・ラムセス)
出典
世界地図
エジプト・アラブ共和国(シャルキーヤ県)

伝記

セトナクトは、エジプト新王国第20王朝の初代ファラオである。在位は紀元前1185年から紀元前1182年とも、紀元前1188年から紀元前1185年ともされ、約3年と短かった。女王が没して第19王朝が断絶したのち、新しい王朝を開いた人物で、ラムセス3世の父にあたる。名はウセルカウラー・セテプエンラーという。

即位は正統な王位継承によるものではなく、出自や経歴についても確かなことは分かっていない。平民の出であった可能性もあるが、妻のティイ・メルエンエスはメルエンプタハの娘であった可能性があり、もしそうなら王家の末席に連なる人物ということになる。数多くいたラムセス2世の孫の一人とする説や、ラムセス2世の別の家系に連なる傍系の子孫とみる説もある。直前の女王タウセレトやシプタハ、さらにセティ2世の子孫でも兄弟でもなかった。いずれにせよ、ラムセス3世をはじめセトナクトを祖とする王家は、偉大なラムセス2世を出した先の王家とのつながりを強く意識しており、子孫の多くがアメンヘルケプシェフやセトヘルケプシェフなど、第19王朝で広く使われた名を受け継いでいる。

即位をめぐる経緯は、治世2年目にエレファンティネ島に建てられた勝利の記念碑から知られる。そこには、国が混乱していたこと、神々が多くの者のなかから王を選んだことが記され、王に背いた者たちはシリアやカナンから支援者を雇ったが計画は失敗し、敵は鷹に追われる雀の群れのように逃げた、とも読める。治世2年目の第3季第2月10日には「王の威厳に対抗するものはなし」と宣言された。孫のラムセス4世が編纂した文書にも、第19王朝のあとにアジア人の首長の支配がもたらした混乱をセトナクトが鎮め、秩序を確立して王になったと記されている。しかし同時代の記録では、第19王朝末期から第20王朝初頭にかけて宰相などの地位に人事異動がなく、この混乱が実際にあったのかは疑わしい。一方で、即位当初に王権に異を唱える勢力があったことは碑文から窺える。その勢力が先代の女王タウセレトで、2人の王が並び立っていた可能性もある。神官バクエンコンスの石碑が治世4年目の日付に言及していることから、即位後の最初の1年はまだタウセレトが存命で、女王が没した治世2年目以降にエジプト全土を掌握したと考えられている。

在位は短く、即位した時点ですでに老齢だったと思われる。バクエンコンスの石碑は2006年12月にルクソールのスフィンクス参道で見つかり、2007年1月ごろに発表された。治世が4年あった可能性を示す発見として、当時の最高考古評議会の事務局長ザヒ・ハワスは、2006年の最も重要な発見の一つだと述べた。一方、シナイ山の碑文にも治世3年目が記されているとされるが、その読みには疑問も出されている。バクエンコンスの石碑から、ラムセス3世が完成させたカルナックのアメン・ラー神殿は、父セトナクトが建設に着手したものであることも分かった。

王墓として着工されたKV11は、掘削中にアメンメセス王の墓にぶつかって中断された。代わりにタウセレトの墓として作られたKV14が拡張されてセトナクトのものとなり、死後はそこに埋葬された。アメンヘテプ2世の墓KV35から他の王のミイラとともに見つかった身元不明の「船の中のミイラ」がセトナクトだと推定されたが、1901年に破壊され、分析はできなかった。

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