伝記
マルグリット・ド・ブラバンは、1276年10月4日に生まれ、1311年12月14日にジェノヴァで没した、ローマ王ハインリヒ7世の王妃である。父はブラバント公ジャン1世、母はマルグリット・ド・フランドルで、父方の祖父母はブラバント公アンリ3世とアデライード・ド・ブルゴーニュ、母方の祖父母はギー・ド・ダンピエールと最初の妃マティルド・ド・ベテューヌである。弟にブラバント公となるジャン2世がおり、兄ジョフロワは幼いうちに亡くなった。姉妹のマリーは、サヴォイア伯アメデオ5世の妃となり、ビザンツ皇后となるアンナ・ディ・サヴォイアの母となった。父方の叔母マリー・ド・ブラバンは、フランス王フィリップ3世の2番目の妃であった。
1292年7月9日(6月9日とも)に、ブリュッセル近郊のテルヴューレン城で、ルクセンブルク伯ハインリヒ7世と結婚した。二人は三親等の親戚にあたり、教皇の特別な許可が必要であった。この結婚は、リンブルフ公領をめぐるブラバント公との長年の争いを解決するために取り決められ、父ジャン1世は結婚が行われたときにリンブルフに対する主張を放棄した。政治的な事情から決まった結婚だったが、夫婦の間には愛情と信頼があり、幸せなものであったという。ルクセンブルク伯妃となったマルグリットはたいへん信心深く、夫の決定に大きな影響を与えたとされる。1308年に夫がローマ王に選ばれると、マルグリットはローマ王妃となった。
夫婦には3人の子が生まれた。長男ヨハンは1296年8月10日に生まれ、のちにルクセンブルク伯、ボヘミア王となった。長女マリーは1304年に生まれ、フランス王シャルル4世と結婚したが、1324年に出産のために亡くなった。次女ベアトリクスは1305年に生まれ、1318年ごろにハンガリー王カーロイ1世と結婚したが、1319年に出産のために亡くなった。
マルグリットは夫のイタリア遠征に同行した。この遠征は、ダンテ・アリギエーリをはじめ、帝国の権威の復活を望む人々の希望を呼び起こした。しかしブレシアの包囲の間に病に倒れ、数か月後にジェノヴァで死去し、同地のサン・フランチェスコ・ディ・カステレット教会に葬られた。死は『バルドゥイン事績録』の1311年12月の箇所に記されている。ハインリヒ7世は翌1312年に皇帝として戴冠した。1313年、皇帝は著名な彫刻家ジョヴァンニ・ピサーノに、マルグリットを記念する碑の制作を依頼した。作品の題は「二人の天使に天へ引き上げられるブラバントのマルグリット王妃」といい、一部はジェノヴァのサン・アゴスティーノ美術館とスピノーラ宮殿のリグーリア国立美術館に保存されている。奇跡的な治癒の噂があり、夫とジェノヴァ大司教ポルケッタ・スピノーラの働きかけもあって、1313年8月に列福されたとされる。ハインリヒ7世もこの年に亡くなった。
同じ年に亡くなった人物
- ピエトロ・グラデニーゴ (1311年没)
- クトゥブッディーン・シーラーズィー (1311年没)
- マンラーイ (1311年没)
- ダヴィド8世 (1311年没)
- ジャウメ2世 (マヨルカ王) (1311年没)
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