伝記
モーリス・ドニは、1870年11月25日、フランスのノルマンディー地方の海岸の町、マンシュ県グランヴィルに生まれた画家・著述家で、ナビ派の一員である。ドニ家は富裕な家庭であった。画家になってからも、聖書から採った題材と並んで、海と海岸線を好んで主題にした。15歳のとき「そうだ、僕がクリスチャンの画家になること、キリスト教徒のあらゆる奇跡を賞賛することが必要だ」と書いている。1888年にパリのアカデミー・ジュリアンで学び始め、エコール・デ・ボザールにも通って、人物画家で理論家のジュール・ジョゼフ・ルフェーブルに学んだ。幼い頃から、のちにナビ派の仲間となるヴュイヤールを知っていた。アカデミーでは、ポール・セリュジエやピエール・ボナールと出会った。
セリュジエは、ポンタヴェンでゴーガンの指導のもとに描いた作品『タリスマン』をパリへ持ち帰り、ポンタヴェン派の考えを仲間に伝えた。ドニはゴーガンの色彩にも影響を受けた。ボナールを通じて、エドゥアール・ヴュイヤールやケル・グザヴィエ・ルーセルとも出会い、1890年に彼らはナビ派を結成した。「ナビ」とは預言者を意味するヘブライ語で、自分たちが新しい表現の形を作り出すという意思の表れであった。グループは1890年代末までに分裂したが、ボナールやヴュイヤールの作品に後まで影響を残し、グループ外のアンリ・マティスにも影響を与えた。同じ1890年に、ナビ派の最初の宣言となる論文『新伝統主義の定義』を発表した。そこで、絵画は、軍馬や裸婦や何らかの逸話である以前に、本質的に、ある順序で集められた色彩で覆われた平坦な表面であることを思い起こすべきだと述べた。ドニは、絵画の平面性に最も早く注目した画家の一人で、これはモダニズムの出発点でもある。彼はその平面性を、装飾性へと発展させた。
1893年にマルタ・ムリエと結婚して7人の子を持った。妻は多くの作品のモデルにもなっている。1898年に、芸術の源泉は画家の個性にあるとする制作の理論を発表し、ローマへの旅を機に、クラシックな方向へ傾いていった。ナビ派の分裂後は、宗教的な主題と壁画に傾倒し、1922年にはそれまでの論文をまとめて『現代美術と宗教美術に関する新理論』を出版した。1919年には、ジョルジュ・ドヴァリエールとともに宗教美術アトリエを結成し、特に戦争で破壊された教会のために制作した。アカデミズムは、しきたりと小手先の技術のために情感を犠牲にするとして、写実主義は求める音楽がないとして、反対した。何よりも、神性に付属するものとしての美を追求した。1919年にマルタが亡くなると、その追悼のための礼拝堂を描き、2年後にエリザベート・グラトロールと再婚して、さらに2人の子をもうけた。1931年には、ジュネーブのセンターの階段を飾る『労働の尊厳』を手がけた。カトリックの第三会に所属し、政治的には王党派のアクション・フランセーズに近かった。1943年11月、パリで交通事故が原因で亡くなった。死亡の日は、2日、3日、13日など諸説ある。1980年、住んでいたサン=ジェルマン=アン=レーに、モーリス・ドニ美術館が開館した。日本にも、国立西洋美術館や大原美術館などに作品がある。
同じ年に亡くなった人物
- ウィリアム・ニコルソン (画家) (1943年没)
- アイモ・カヤンデル (1943年没)
- ヴィクトール・ルッツェ (1943年没)
- デイジー・フォン・プレス (1943年没)
- クルト・フォン・ハンマーシュタイン=エクヴォルト (1943年没)
同じ地域に関係する人物
- ニコラ・ミニャール (1668年没)
- ヴァンサン・ヴォワチュール (1648年没)
- エリファス・レヴィ (1875年没)
- エドモン・ジャベス (1991年没)
- ミレンコ・ヴェスニッチ (1921年没)