HISTORICAL PERSON · 1943年没

ダフィット・ヒルベルト

ドイツの数学者で「現代数学の父」と呼ばれる。ゲッティンゲン大学教授として19世紀末から20世紀初頭の指導的数学者となり、多くの弟子を育てた。

生涯
1943年没
死亡地
ドイツ連邦共和国(ニーダーザクセン州 / ゲッティンゲン)
出生地
ロシア連邦(カリーニングラード)
出典
世界地図
ドイツ連邦共和国(ニーダーザクセン州)

伝記

ダフィット・ヒルベルトは、1862年1月23日、当時プロイセン王国領だったケーニヒスベルク(現在のロシア領カリーニングラード)に生まれたドイツの数学者で、「現代数学の父」と呼ばれる。両親はオットーとマリア・テレーゼ(旧姓エルトマン)で、二人兄弟の最初の子であった。出生地は、本人の申告ではケーニヒスベルクだが、父が当時勤めていたヴェーラウだとする説もある。1872年の秋にフリードリヒ学院に入り、これはカントが通ったのと同じ学校であったが、不幸な時期を過ごしたのち、1879年にヴィルヘルム・ギムナジウムに移り、1880年の春に卒業した。同年の秋にケーニヒスベルク大学に入学した。

翌1882年の春には、同じケーニヒスベルク出身で二歳年下のヘルマン・ミンコフスキーが大学に入ってきた。ヒルベルトは、父の反対にもかかわらず、内気だが才能に恵まれたミンコフスキーとすぐに親しくなった。ミンコフスキーは「最良にして本当の友人」であり、彼が亡くなった際、ヒルベルトは悲しみに暮れたという。ハインリッヒ・ウェーバーとフェルディナント・フォン・リンデマンから学び、特にウェーバーは、ドイツ数学の影響をヒルベルトに与えた。1884年にアドルフ・フルヴィッツが准教授として加わると、三人の間で盛んな学問上の交流が始まった。1885年、リンデマンの指導で不変式論の学位論文を出して学位を取り、卒業した。1886年から1895年までケーニヒスベルク大学で教えた。

1895年にゲッティンゲン大学の教授に就任し、1930年に退職するまで教えた。19世紀末から20世紀初頭にかけての指導的な数学者となり、弟子の育成にも努めた。マックス・デーン、エーリヒ・ヘッケ、ヘルマン・ワイル、ヴィルヘルム・アッカーマン、パウル・ベルナイスなどの数学者を輩出した。22歳のノイマンの論文を評価して、ゲッティンゲン大学に招いた。日本人では高木貞治がドイツ留学時代に弟子となった。1902年から1939年まで、数学の主要な雑誌である『数学年報』の編集を務めた。1900年のパリの国際数学者会議では「ヒルベルトの23の問題」を発表し、さまざまな数学者がこれに取り組んだことで、この講演は20世紀の数学の方向性を形づくった。リーマン仮説のように、今も未解決の問題がある。公理論と数学の無矛盾性の証明に関する計画は、ヒルベルト・プログラムと呼ばれる。

業績は、抽象代数学、代数的整数論、積分方程式、関数解析学、幾何学の公理系、一般相対性理論と、非常に多岐にわたる。ヒルベルト空間やヒルベルトの零点定理など、その名の残る概念も多い。1915年には、アインシュタインが一般相対性理論の場の方程式を発表し、先にこの共変方程式を創案したのはどちらかという優先権をめぐる論争が起きたが、1997年に、アインシュタイン側に優先権があるとして解決したとされる。1903年にポンスレ賞、1906年にコテニウス・メダル、1910年にボーヤイ賞を受け、1930年にはケーニヒスベルク市の名誉市民となった。1933年にナチスがゲッティンゲン大学の教員の多くを追放するのを目にした。ベルナイスは国を去ったが、ヒルベルトと協力した『数学の基礎』を1934年と1939年に出した。ヒルベルトは改革派のプロテスタントとして洗礼を受けたが、のちに教会を離れ、不可知論者となった。1943年2月14日に死去し、葬儀の参列者は12人に満たなかったという。

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