伝記
フラーテス4世は、アルサケス朝パルティア王国の王である。在位は紀元前40年ないし38年頃から紀元前2年までとされ、英語圏の記述では紀元前37年から紀元前2年とも書かれる。領内各地の反乱に苦しみ、ローマから送られた女奴隷ムサを妻としたが、のちにその彼女によって命を絶たれた。
前王オロデス2世の子として生まれた。オロデス2世には30人もの男子がおり、後継者の筆頭は兄のパコルス1世であった。ところがパコルス1世はローマ領への遠征の途中、紀元前38年の敗戦で戦死する。深く嘆いたオロデス2世は、もう一人の息子であるフラーテス4世に王位を譲り、まもなく世を去った。死因ははっきりしない。悲しみのためとも老衰ともいわれ、一方で、フラーテス4世がトリカブトを飲ませ、それが失敗すると首を絞めて父を殺したとも伝えられる。即位したフラーテス4世は、自らの地位が脅かされることを恐れ、兄弟の大半を殺害した。オロデス2世とコンマゲネ出身の妻ラオディケの子である異母兄弟を処刑したのは、母方の血筋が自分より高貴だったためともいわれ、ラオディケも殺されたらしい。
こうした粛清は貴族の離反を招いた。兄弟の支持者や自分の反対者を追放したが、その一人で、オロデス2世のもとで将として名をあげたモナエセスはシリアへ逃れ、ローマの三頭政治家マルクス・アントニウスを頼った。モナエセスはパルティア攻略を勧め、アントニウスは三つの都市を与えて王位まで約束した。パコルス1世がアルメニア王家に嫁いでいたこともあり、兄弟や貴族への仕打ちでアルメニアとの関係も傷んでいた。事態を重く見たフラーテス4世はモナエセスを呼び戻し、和解した。紀元前36年、アントニウスは10万人ともされる兵を率いてアルメニアを通り、パルティアの従属王国アトロパテネに侵入し、その首都を囲もうとした。だがフラーテス4世はローマ軍の後方の部隊を襲い、攻城用の巨大な破城槌を破壊した。アルメニア王アルタワスデス2世はアントニウスのもとを離れ、パルティア軍は退却するローマ軍を追って悩ませた。弱り切った軍がシリアに戻るまでに、アントニウスは兵力の3分の1を失ったとされる。その後アントニウスがオクタウィアヌスとの戦いに追われると、フラーテス4世はアトロパテネを回復し、アルメニアにはアルタワスデス2世の子アルタクシアスを王に据えた。
外敵が退くと内乱が続いた。紀元前31年頃、ティリダテス2世が王を名乗って反乱を起こし、フラーテス4世は敗れてスキタイのもとへ逃れた。翌年、スキタイの支援を得て反撃に成功し、ティリダテス2世を破った。ティリダテス2世はローマに逃れ、その支援で紀元前26年初めにバビロニアを押さえたが、同年半ばにはまた駆逐された。紀元前25年にも再び攻め込んでセレウキアを占領したが、同年中に敗れ、力を失った。このとき王の子の一人が連れ去られている。続いてミトラダテスの反乱も起き、対応に追われた。
紀元前20年、ローマで権力を握ったアウグストゥスと交渉が行われ、連れ去られた王子が返され、代わりにローマはカルラエで奪った軍旗や生き残りの捕虜を受け取った。このとき王はイタリア出身の女奴隷ムサを贈られ、彼女は王妃となって寵愛され、フラータケス(フラーテス5世)を産んだ。ムサは王に勧めて、先に生まれた4人の王子をローマへ送らせたとされる。紀元前2年、ムサは王を毒殺し、息子フラーテス5世とともに国を治めた。
同じ年に亡くなった人物
- ユッルス・アントニウス (紀元前2年没)
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