HISTORICAL PERSON · 1316年没

エリザベス・オブ・リズラン

エドワード1世の娘。ホラント伯の嫡男と死別後にヘレフォード伯爵と再婚し11人の子をもうけたが、最後の出産直後に死去した。

生涯
1316年没
死亡地
イギリス連邦(エセックス / クェンドン)
出生地
イギリス連邦(リズラン城)
出典
世界地図
イギリス連邦(エセックス)

伝記

エリザベス・オブ・リズランは、1282年8月7日、ウェールズのリズラン城で生まれたイングランドの王女である。父はエドワード1世、母は最初の王妃エリナー・オブ・カスティルで、ウェールズ征服の戦いのさなかに生まれた。2歳年下の弟、のちのエドワード2世とは同じ家で、同じ召使いに囲まれて育ち、旅にもよく一緒に出かけて、きょうだいのなかでもとりわけ親しかったという。1290年、8歳のエリザベスは6歳の弟に銀の杯を贈っている。

1285年、ホラント伯フロリス5世の息子ヤンとの婚約が成立し、ヤンは教育を受けるためにイングランドへ渡って、のちの義兄にあたるエドワードの仲間になった。1296年に父が殺されると、ヤンはいったん故郷へ戻って伯として認められ、1297年初めにイングランドへ帰ってきた。二人は1297年1月8日にイプスウィッチで結婚した。花嫁衣装のために35人の仕立屋が4日4晩働いたといい、式は華やかだったらしい。年8000ポンドの寡婦産が定められ、弟のエドワードは金の杯を贈った。

結婚の10日後にヤンはホラントへ帰ったが、エリザベスは故郷を離れる決心がつかない様子だった。年代記によると、それに腹を立てた王は娘の冠を火に投げ込んだというが、冠は間に合って取り出され、宝石を補って直された。エリザベスはその後の数か月を、主にウィンザーやキングス・ラングリーで弟のエドワードと過ごし、7月には姉のマリーが訪ねてきた。やがてホラントへ向かい、父の遠征に同行してアントウェルペン、メヘレン、ルーヴェン、ブリュッセルを経てヘントに着き、1297年のクリスマスのあとまで父や姉たちのそばにいた。

夫妻の結婚生活は、ハーグに暮らしていたこと以外、ほとんど分かっていない。ヤンは1299年、ハールレムで15歳で亡くなった。赤痢が死因の可能性が高いが、毒殺のうわさも流れた。病弱だったため、結婚が実際には成り立っていなかった可能性もあり、子はできなかった。1300年のうちにエリザベスはホラントを去り、ブラバントの姉マルグリットの宮廷に数か月滞在した。その後イングランドに戻り、ヨークシャーのカウッドで、前年に父と結婚した新しい継母の王妃マーガレットに会い、1300年のクリスマスか1301年の新年には、弟から栗毛の馬を贈られている。

父はすぐ次の夫を探し、1302年11月14日、ウェストミンスター寺院で第4代ヘレフォード伯ハンフリー・ド・ブーンとの結婚式が行われた。式の前にハンフリーは領地と爵位をいったん手放し、すぐに夫妻の共有として返された。これは父が娘を嫁がせるときによく求めた形だった。結婚後も王の宮廷で暮らし、弟エドワードは1304年と1305年に6通の手紙を送り、「いとしい姉上」と呼んでいる。夫はエドワード2世の即位後、その決定に何度も反対したが、姉弟の関係は変わらなかった。夫妻には11人の子が生まれ、成人したのはエリナー、ジョン、ハンフリー、マーガレット、ウィリアム、エドワードの6人である。エリザベスは1316年5月5日、第11子の出産のあと亡くなり、エセックスに葬られた。息子ウィリアムの系統を通じて、ヘンリー4世の最初の妻メアリー・ド・ブーンの曾祖母にあたる。

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