伝記
ジャン・ジロドゥは、1882年10月29日にフランスのオート=ヴィエンヌ県の小さな町ベラックで生まれた外交官、劇作家、小説家である。土木監督の父レジェと、母アンヌ・ラコストの間に生まれ、父の転勤にしたがって各地で育った。1887年にアンドル県ペルヴォアザンの小学校に入り、1893年にはシャトールーのリセに進んで、戯曲作りを試みた。1898年には、シャルル=ルイ・フィリップとエドモン・ロスタンから励ましの返書をもらっている。1900年に給費生としてパリのリセ・ラカナルに移り、1901年に卒業して兵役につき、1903年に除隊すると高等師範学校に進んだ。ドイツ語で優等賞を受け、1905年に首席で卒業し、給費生としてミュンヘンに留学した。そのあと東欧や南欧にも遊んだ。
1906年にはハーヴァード大学のフランス語教師として渡米し、翌1907年に帰国して、新聞の文芸担当記者になった。1909年に小説集『田舎の人々』を出版したが、売れ行きはよくなかった。ただしアンドレ・ジッドの目にとまった。1910年に外務省の政治経済局に副領事見習生として入り、かたわら小説を発表して注目され始めた。1914年に第一次世界大戦に出征して負傷し、1915年にはダーダネルスで諜報活動に従事して再び負傷し、パリに戻ってレジオン・ドヌール勲章を受けた。1916年には教導士官としてポルトガルへ、ついでアメリカへ派遣された。1918年の終戦の年に結婚し、1919年に外務省に復帰して長男が生まれた。1921年に海外事業局の局長となり、1922年に小説『ジークフリートとリムーザン人』を出版してバルザック賞を受けた。1924年には駐独大使館の秘書官としてベルリンに赴任したが、短期間で戻り、新聞情報局長となった。
1927年に演出家で俳優のルイ・ジューヴェを知り、その励ましを受けながら、先の小説をもとに台本を練った。1928年5月3日、初戯曲『ジークフリード』の初演に漕ぎつけ、成功を収めた。ジロドゥは「この芝居はジューヴェと一座の人々とが作り上げた。台本は無署名がふさわしい」と記している。以降は次々と戯曲を書き、ほとんどをジューヴェ一座が上演し、さながら同座の座付作者であった。台本にト書きが少ないのは、一座の意見を入れて訂正を重ねたためという。ギリシア神話や旧約聖書などを下敷きにした反リアリズムの、新鮮な作風であった。『トロイ戦争は起こらない』や『オンディーヌ』などの作品がある。
1939年に第二次世界大戦が始まると、ダラディエ首相に乞われて情報局長となり、ラジオ放送でナチスと対抗したが、1940年3月、内閣の退陣とともに辞職した。占領下ではレジスタンスに協力し、ルイ・アラゴンらとも通じていた。1941年にゴーモン社の文芸部長となり、シナリオを2本書いた。1942年、草稿を南米を巡業中のジューヴェに送った戯曲がリオ・デ・ジャネイロで初演され、1943年には『ソドムとゴモル』がパリで初演された。1944年1月31日、尿毒症のため、パリで急死した。61歳であった。遺作の『シャイヨの狂女』は、1945年12月に帰国したジューヴェが初演した。
同じ年に亡くなった人物
- アーリム・ハーン (1944年没)
- レザー・パフラヴィー (1944年没)
- マリア・テレサ・フォン・ポルトゥガル (1944年没)
- イーダ・ターベル (1944年没)
- ヴァルター・エーザウ (1944年没)
同じ地域に関係する人物
- アンリ・ファヨール (1925年没)
- ウジェーヌ・アントニアディ (1944年没)
- ギヨーム・ギヨン=ルティエール (1832年没)
- ジョルジュ・シェアデ (1989年没)
- マリア・ブランシャール (1932年没)