伝記
リヒャルト・ゾルゲは、1895年10月4日にロシア帝国バクー県のサブンチで、九人兄弟の一人として生まれた。父はドイツ人の鉱山技師ヴィルヘルムで、石油精製の知見を買われてコーカサスに招かれ、採掘機械工場を設立し、ロシア人のニーナと結婚した。父方の大叔父は、カール・マルクスの秘書で第一インターナショナルの書記長を務めたフリードリヒ・アドルフ・ゾルゲである。3歳のとき父が工場を売って一家でベルリンに移住し、1902年から1914年まで学校に在籍した。のちの手記には、歴史や哲学、文学、政治学は得意だったが、他の教科は通常以下で、規則を守らずめったに口をきかない生徒だったと記している。
1914年10月に第一次世界大戦が始まると、卒業を待たずにドイツ陸軍に志願し、3度負傷した。1916年3月には西部戦線で両足に重傷を負って入院し、除隊した。入院中、キール大学で社会学を専攻する従軍看護婦から社会主義理論を聞かされ、その父は関心を示した分野の文献の提供を惜しまなかった。1917年11月のロシア革命に衝撃を受け、1918年1月に正式に軍を除隊すると、キール大学に入学してドイツ独立社会民主党に入党した。1919年にハンブルク大学に移り、10月にドイツ共産党に入党し、1920年に国家学の博士号を取得した。アーヘンの高等学校で教員になったが、1921年末に政治論争を理由に解職され、炭鉱作業員に転じて職場に共産主義組織をつくり、のちにフランクフルト大学の助手となった。
1924年のドイツ共産党大会でコミンテルンの幹部の警護と接待を担当し、親しくなった彼らに、コミンテルンでの勤務を勧誘された。同年末にモスクワに移り、1925年からコミンテルンに所属した。1929年5月にはコミンテルンを離れて、軍事諜報部門の労農赤軍参謀本部第4局に移った。上司の命で中華民国の上海に赴き、1930年から1932年まで諜報活動をしながら協力者のグループを築き、「ラムゼイ」というコードネームを与えられた。上海では、アメリカ人ジャーナリストのアグネス・スメドレーと知り合い、朝日新聞記者の尾崎秀実とも出会った。
1933年、次に出された指示は日本での活動で、日本の対ソ政策や軍備の動向、日独関係の調査などが主な内容だった。ゾルゲはドイツで駐日ドイツ大使館員への紹介状を得て、ジャーナリストとしてのパスポートを入手し、同年9月に横浜港に到着して活動を始めた。1934年10月には正式にナチス党員となった。大使館付き陸軍武官補のオイゲン・オットの信頼を得て、ユーゴスラビア人のブランコ・ド・ヴーケリッチ、画家の宮城与徳、無線技士のマックス・クラウゼンらを諜報団に加え、尾崎が情報源を担った。来日から1935年までは、土台作りに精いっぱいで、任務遂行どころではなかったと手記に記している。1936年の二・二六事件では、大使館内で情報収集に努め、事件を分析した報告書をドイツ外務省や赤軍第四本部に送った。やがて1941年、「ゾルゲ事件」の首謀者として日本の警察に逮捕され、治安維持法と国防保安法違反で死刑判決を受け、1944年11月7日に処刑された。
同じ年に亡くなった人物
- ヴィータウタス・マチェルニス (1944年没)
- ウィリアム・テンプル (1944年没)
- マーガレット・ウッドロウ・ウィルソン (1944年没)
- マリア・ヨーゼファ・フォン・ザクセン (1944年没)
- ヤーコプ・フォン・ユクスキュル (1944年没)