HISTORICAL PERSON · 1944年没

セルゲイ・プロクジン=ゴルスキー

ロシアの写真家。三色のフィルターで撮った乾板を合成する独自のカラー写真技法を開発し、皇帝の支援でロシア帝国各地の数千枚のカラー写真を残した。

生涯
1944年没
死亡地
フランス共和国(パリ)
出生地
ロシア連邦(Funikova Gora)
出典
世界地図
フランス共和国(パリ)

伝記

セルゲイ・ミハイロヴィチ・プロクジン=ゴルスキーは、1863年8月31日に生まれたロシアの写真家で、化学者でもあった。生地はムーロムとする資料と、ウラジーミル県のフニコヴァ・ゴラの領地とする資料がある。両親は貴族で、一族には長い軍人の歴史があった。家族とともにサンクトペテルブルクに移り、同地の国立工業大学でドミトリ・メンデレーエフに化学を学んだ。さらに帝国芸術アカデミーで音楽と絵画も修めた。1890年にアンナ・アレクサンドロヴナ・ラヴロヴァと結婚して、のちに2人の息子と1人の娘が生まれた。アンナの父は実業家で帝室技術協会の活動的な会員であり、プロクジン=ゴルスキーはその金属工場の役員会の理事長となり、十月革命まで務めた。同協会の写真部会にも加わり、写真の科学について発表や講義を行った。

1901年にサンクトペテルブルクに写真スタジオと研究室を開いた。翌年にはベルリンに赴き、写真化学の教授アドルフ・ミーテのもとで6週間、色の増感と三色写真を学んだ。ミーテは当時のドイツで最も進んだ実践者であった。ロシア、ドイツ、フランスの科学者や写真家に向けた仕事や発表が称賛され、1906年には帝室技術協会の写真部会の会長に選ばれ、ロシアの主要な写真誌の編集者も務めた。彼が用いたカラー写真の方法は、赤、緑、青のフィルターを通して3枚の白黒の乾板を撮り、それを合成するものである。この原理は1855年にジェームズ・クラーク・マクスウェルが提案し、1861年に実証されていたが、当時の感光材料では良い結果が得られなかった。

生前もっともよく知られたのは、1908年にヤースナヤ・ポリャーナで撮影したレフ・トルストイのカラーの肖像で、さまざまな出版物や絵葉書、額装用の大判の印刷物に使われた。この写真と、ロシアの自然や建造物を撮った先の作品が評判となり、1908年に大公ミハイル・アレクサンドロヴィチと皇太后マリア・フョードロヴナに、1909年には皇帝ニコライ2世とその家族に作品を見せる機会を得た。皇帝は上映を楽しみ、その許可と資金を与えて、ロシアをカラーで記録することが認められた。鉄道車両の暗室も与えられ、1909年ごろから1915年ごろにかけて帝国全土を巡って撮影を重ねた。10年の間に1万枚の写真を撮るつもりで、この事業を生涯の仕事と考えていた。十月革命の後も撮影の旅を続けたが、新しい体制の下で教授職を受けることを強いられ、1918年8月には教育省から、ノルウェーで映写機材を調達するよう命じられた。

ロシア革命が起こるとパリへ亡命した。1920年に助手のマリア・フョードロヴナ・シチェドリナと再婚して娘が生まれ、1922年にはパリに落ち着いて、最初の妻や子どもたちと再び一緒に暮らした。成人した3人の子とともに写真スタジオを開き、1930年代には、老いた彼はフランスの若いロシア人たちにロシアの写真を見せる講演を続けた。1944年9月27日、パリ解放から1か月後にパリで亡くなり、サント=ジュヌヴィエーヴ=デ=ボワのロシア人墓地に葬られた。彼が残した膨大なガラス乾板は、第二次世界大戦の戦火を避けてパリの地下室に隠された後、アメリカ議会図書館が買い取った。現在では、最新のデジタル技術で色分解された乾板が高精細に合成され、インターネット上で公開されている。

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