伝記
マルク・ブロックは、1886年7月6日、フランスのリヨンで生まれた歴史学者である。家はアルザス地方のユダヤ人家系で、父ギュスターヴはリヨン大学で古代ローマ史を講じる歴史家だった。母はサラといい、兄のルイが一人いた。翌年に父がソルボンヌの教授に任命されたため、一家はパリに移った。家庭は世俗的で、ユダヤ教の教育や習慣は希薄だったという。父は幼いころから歴史を教え、息子を宗教ではなく世俗の教育で育てようとした。9歳のときにドレフュス事件が起こり、これは彼の少年期に大きな影響を与えたとされる。パリの名門リセ、ルイ・ル・グラン校を経て、高等師範学校に進み、在学中に志願して歩兵連隊で1年を過ごした。復学後は学究の道に進み、ドイツ留学や財団の支援による研究員を経て、中世史とフランスの地方史の研究を深め、1913年にはアミアンのリセの教員となった。
第一次世界大戦が始まると再び志願して従軍し、軍曹としてベルギー戦線でドイツ軍と対峙した。兵役は4年に及び、献身的な勤務と連隊を率いる力量がたびたび表彰されて、少尉にまで昇進した。1919年、大戦後に開校したストラスブール大学の文学部に中世史の講師として赴任し、シモーヌ・ヴィダルと結婚した。2人の間には6人の子が生まれた。主論文『国王と農奴』でソルボンヌの博士号を得て、気鋭の中世史家として活動を始めた。この時期の『王の奇跡』は、触れるだけで瘰癧が治ると信じられた王の治癒の力の歴史を扱い、心性史と実証的な手法を統合した重要著作として、今も参照されている。
当時のヨーロッパでは、国際的な歴史学雑誌が相次いで登場し、科学的な手法を取り入れた新しい歴史学が模索されていた。この潮流を受けて、同僚のリュシアン・フェーヴルらと1929年に学術誌『社会経済史年報』を創刊した。のちの歴史学の拠点となる「アナール学派」の出発点である。1936年にはソルボンヌの文学部の経済史教授に就任した。この時期の『フランス農村史の基本性格』と『封建社会』は、以後の世界の歴史学に大きな影響を及ぼした。私生活では、アガサ・クリスティなど英語圏の推理小説を愛読していたという。
1939年8月に招集されて再び軍務に就いたが、フランスが敗北すると、親独のヴィシー政府がユダヤ人法を成立させ、公職を追放された。アメリカのロックフェラー財団などの打診でニューヨークへ渡る計画を立てたが、事務手続きの不備が続いて実現しなかった。1941年に公職追放の免除申請が通り、妻の健康問題などから南仏のモンペリエ大学に移ったが、パリのアパートはドイツ軍に接収され、蔵書は持ち去られた。1942年にドイツ軍がフランス全土を支配下に置くと、大学での籍も失った。翌1943年にリヨンの地下抵抗組織と接触し、レジスタンス運動に身を投じた。1944年3月にゲシュタポに逮捕され、リヨン近郊の施設で収監された。劣悪な環境で拷問を受けながら、若いメンバーたちに秘かにフランス史を教え、決して絶望しなかったと、解放された1人が回想している。ノルマンディー上陸作戦の成功でドイツ軍の敗色が濃くなった1944年6月16日、他の収監者とともに銃殺された。翌月、夫の消息を知らないまま妻も亡くなった。『歴史のための弁明』や『奇妙な敗北』は没後に刊行され、2026年にはパリのパンテオンに埋葬された。
同じ年に亡くなった人物
- ミルドレッド・ハリス (1944年没)
- ポール・ポワレ (1944年没)
- アダビア・エフェンディエバ (1944年没)
- ヨゼフ・レヴィーン (1944年没)
- アグスティン・バリオス (1944年没)
同じ地域に関係する人物
- シャルル=フィリップ・ロバン (1885年没)
- マルグリット・ド・ブルボン (1438-1483) (1483年没)
- ルイーズ・ラベ (1566年没)
- フィリベルト2世・ディ・サヴォイア (1504年没)
- ジャン=マリー・ヴィアンネ (1859年没)