伝記
フィリッポ・トンマーゾ・マリネッティは、1876年12月22日に生まれ、1944年12月2日に没したイタリアの詩人、作家、批評家で、未来派の創始者である。
エジプトのアレクサンドリアで生まれた。父エンリコはピエモンテ出身の弁護士で、母アマリアはミラノの文学教授の娘だった。両親は1865年に、エジプト総督イスマーイール・パシャの招きで、近代化計画に参加する外国企業の法律顧問としてエジプトへ来ていた。母は詩の熱心な読者で、幼い息子にイタリアや欧州の古典を教えた。17歳で学校の雑誌を創刊したが、ゾラの小説を学内で宣伝したため、イエズス会から退学を迫られたという。エジプトで学んだ後、パリで学び、1894年にソルボンヌでバカロレアを取得し、1899年にパヴィア大学で法学の学位を得た。弁護士にはならず、文学の道を選び、詩、小説、演劇などあらゆる形式を試した。
最初はフランスで活躍する象徴主義の詩人であり、1907年から1908年にかけては、パリ郊外の芸術家共同体の訪問者でもあった。やがてアルトゥーロ・ラブリオーラらの社会主義者と親交を持ち、政治に関わり始めた。1908年にミラノ郊外で、自転車の二人を避けて溝に突っ込む軽い自動車事故を起こした。溝から助け出された彼は、新しい人間になったように、停滞した様式と退廃を終わらせようと決意した。友人たちと、過去とのあらゆる芸術上のつながりを断ち、博物館や図書館、あらゆるアカデミーを破壊しようという急進的な計画を語り合った。1909年2月20日、フランスの日刊紙フィガロの第一面に、フランス語の「未来派宣言」を発表した。宣言の中で、戦争を世界で唯一の衛生法とたたえ、軍国主義や愛国心を賛美した。この宣言はヨーロッパ中で読まれ、議論を呼んだ。
最初の未来派の作品はあまり成功せず、4月に戯曲『饗宴の王』の初日は、観客の口笛とやじで中断された。マリネッティ自身も口笛を吹き、「やじられたいという欲望」を未来派の要素に加えた。1910年には最初の長編小説が、猥褻の裁判で無罪とされた。この年、ボッチョーニ、カッラ、ルッソロの若い3人の画家が未来派の哲学を採用して味方となり、未来派の夕べと呼ばれる劇場形式の催しを重ねた。観客の一部は野菜を投げつけるために来ていたという。ヴェネツィアで過去を愛する人々に反対する宣言のビラをまいたのも、この頃のもっとも成功した行動の一つである。1911年に伊土戦争が始まると、フランスの新聞の特派員としてリビアへ渡った。第一次世界大戦にも従軍し、1914年にはオーストリアの国旗を燃やして逮捕された。
1919年6月6日に「ファシスト・マニフェスト」を共同で発表し、ファシズム運動の先鞭をつけた。この年、ムッソリーニが結成したイタリア戦闘者ファッシに参加し、社会党機関紙の編集部の襲撃に関わって投獄された。のちにはムッソリーニの路線を、保守主義や有産階級との妥協と非難して、ファッシを脱退した。ただ、のちにムッソリーニの活発な支持者になったとも伝えられる。60歳でソヴィエト戦線への派遣軍に加わって赤軍と戦い、その後、イタリア社会共和国ではアカデミーを主導したが、1944年に死去した。ガブリエーレ・ダンヌンツィオとともに、ヒトラーを嫌っていた。ユダヤ人のアンリ・ベルクソンらに傾倒していたこともあり、反ユダヤ主義には反対した。
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