HISTORICAL PERSON · 1944年没

エドヴァルド・ムンク

ノルウェーの画家。『叫び』の作者として世界的に有名で、ノルウェーでは国民的な画家とされる。幼い頃の母や姉の死が作品に影響を与えたという。

生涯
1944年没
死亡地
ノルウェー王国(オスロ / エーケリー)
出生地
ノルウェー王国(Adalsbruk)
出典
世界地図
ノルウェー王国(オスロ)

伝記

エドヴァルド・ムンクは、1863年12月12日に生まれ、1944年1月23日に没したノルウェー出身の画家である。『叫び』の作者として世界的に有名で、ノルウェーでは国民的な画家とされる。

医師の父クリスティアン・ムンクのもとに、ヘードマルク県で生まれた。1864年早々に、一家は首都クリスチャニア(現在のオスロ)に移り住んだ。母ラウラ・カトリーネは結核に冒され、1868年12月29日に亡くなり、以後は母の妹が家の世話をした。父はもともと信心深かったが、妻の死後は狂信的なほどにキリスト教の信仰にのめり込み、子どもを叱るときは異常なほど厳しかった。ムンクは父と口論した夜、父が寝室でひざまずいて祈っているのを目撃して衝撃を受け、その光景をすぐにスケッチすることで、ようやく眠れたと回想している。「病と狂気と死が、私の揺りかごを見守る暗黒の天使だった」とも語った。1877年11月15日には、母に代わって愛情を注いでくれた姉ヨハンネ・ソフィーエが、結核のため15歳で亡くなった。こうして身近に死を実感したことは、のちの芸術に生涯影響を与え、初期の『病室での死』『病める子』では直接のモチーフになっている。

1879年に学校を中退し、技師になるため工業学校に通ったが、リューマチ熱で欠席が続き、1880年11月に退学した。その日の日記に「僕の運命は今や、まさに画家になることだ」と書いている。同年12月、父を説得して王立絵画学校の夜間コースに入学した。1883年頃から、画家クリスチャン・クローグや作家ハンス・イェーゲルを中心とするボヘミアン・グループと交際し、展覧会への出品を始めたが、作品への評価は厳しかった。1886年の『病める子』は、亡くなった母や姉を重ね合わせて1年近くかけて描き上げた作品で、保守系の日刊紙から激しく攻撃された。ムンク自身は後に「ノルウェーではこれほどスキャンダルを巻き起こした絵はない」と記している。このとき、唯一クローグだけがこの作品を弁護した。1889年5月には、ノルウェーでは初めてという個展を開き、自作110点を並べた。

1889年10月に政府の奨学金を得てパリに留学し、12月に父の死を知らされて衝撃を受けた。その後、パリ郊外のサン=クルーに移り、そこで「これからは、息づき、感じ、苦しみ、愛する、生き生きとした人間を描く」という「サン=クルー宣言」を書き残した。フランス滞在中に、印象派やポスト印象派、ナビ派などに触れ、技法を学んだ。1892年にノルウェーへ帰国し、「生命のフリーズ」という連作の構想を固めた。この年、ベルリン芸術家協会の招きで個展を開いたが、新聞に激しく攻撃され、1週間で打ち切りとなるスキャンダルになった。その後もベルリンに住み、『叫び』『マドンナ』『思春期』など代表作を次々に生み出し、これが「生命のフリーズ」を構成する作品となった。1897年からは海沿いの村オースゴールストランを拠点にした。

1902年からドイツを中心に活動し、この年、交際していた女性との口論の末、暴発したピストルで手にけがを負う事件があった。1908年にコペンハーゲンの精神病院に入院して療養し、そのときにはすでにノルウェー政府から勲章を与えられるなど、評価は決定的になっていた。1909年に退院してノルウェーに戻り、クリスチャニア大学講堂の壁画を手がけた。1916年からはオスロ郊外のエーケリーに住んで制作を続け、1944年に亡くなった。『叫び』の個人所蔵のパステル画は、2012年にオークションで1億1990万ドルで落札された。

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