HISTORICAL PERSON · 1324年没

ディーノ・コンパーニ

中世フィレンツェの商人・政治家・年代記作者。代表委員や正義の旗手を務め、白派と黒派の和解を願ったが、1301年の黒派の政権掌握で政界を退いた。当時の混乱を『年代記』に書き残した。

生涯
1324年没
死亡地
イタリア共和国(フィレンツェ県 / フィレンツェ)
出生地
イタリア共和国(フィレンツェ)
出典
世界地図
イタリア共和国(フィレンツェ県)

伝記

ディーノ・コンパーニは、中世イタリアのフィレンツェで商人、政治家、年代記作者として生きた人物である。生年は1255年とされるが、1246年か1247年とする説もある。フィレンツェの市民の家に生まれ、ポル・サンタ・マリア組合に登録される商人となった。青年のころには、当時の風習に従ってラテン語とスコラ哲学の初歩、プロヴァンス語とフランス語を学んだ。詩も作り、清新体の詩人としてグイード・カヴァルカンティ、ダンテ・アリギエリ、チノ・ダ・ピストイアらと並び称されている。

組合の名簿に名が初めて現れるのは1280年で、1320年まで記載が続く。1282年にはまだ25歳という若さで、6名からなる市政改革委員の一員に抜擢され、代表委員制の創設にかかわった。以来、市政顧問としてフィレンツェの政界で重きをなし、組合の理事にも1286年、1289年、1291年、1294年と選ばれた。1289年4月15日から6月15日まで代表委員をつとめ、1293年6月15日から8月15日までは「正義の旗手」の職にあった。そのころのフィレンツェでは、チェルキ家を中心とする白派とドナーティ家を中心とする黒派の抗争が激しくなり、それぞれが国外の教皇派と皇帝派に結びつきつつあった。1293年には友人のジアノ・デルラ・ベルラによって「正義の法令」が発布され、封建貴族が集まっていた黒派は打撃を受けた。ディーノ自身は公正な愛国者として、自分の党派に有利な状況よりも両派の和解を願った。1294年には法制改革委員に指名されている。

1301年10月15日から11月7日まで、二度目の代表委員をつとめた。黒派に与していた教皇ボニファティウス8世とシャルル・ド・ヴァロワは、この和解の姿勢につけこんだ。「剣を磨くべき時に和平交渉の意志を相手に伝えて」しまい、それは白派の敵に弱気と恐怖の行動と受け取られた。1301年にシャルルは1200騎を連れてフィレンツェに入り、黒派の巨頭コルソ・ドナーティが市政を奪った。その年の11月に代表委員は総辞職し、ディーノの名はその後、公文書に挙がっていない。白派は数年にわたって追放されたが、ディーノは前代表委員の特権を盾にして放逐を免れた。以後は私人として暮らし、商事会社や問屋の所有者として羊毛組合に登録された。

1310年から1312年にかけて、フィレンツェを襲った危機を『年代記』に書き残した。ディーノ自身が当事者として、また見物人として登場し、国内の分裂による損害と、黒派と白派の犯した犯罪を弾劾している。ボニファティウス8世、シャルル・ド・ヴァロワ、コルソ・ドナーティの肖像は容赦ない厳しさで描かれる。この書は三巻からなり、1280年から1312年までのフィレンツェを扱う。第一巻は都市の地理の描写に始まり、市内の党派争いの発端を1215年の出来事に置く。第二巻は1301年から1303年を語り、ダンテも追放された者の一人として現れる。第三巻は1303年から執筆時までを述べ、結びでは政治的な解決を欠いた都市の姿を道徳の立場から語る。のちに真偽が論じられたが、イジドーロ・デル・ルンゴの校訂を経て、著者と原作性については今日では意見が一致している。批評家のデ・サンクティスは、同時代の年代記作家ヴィラーニが財産目録を作るような落ち着いた無関心さで語るのに対し、ディーノとダンテは短剣で歴史を刻んでいると評した。ディーノは1324年2月26日、およそ70歳で世を去り、サンタ・トリニタ教会に葬られた。日本では杉浦明平の訳が『白黒年代記』として1948年に刊行されている。

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