伝記
ヒュー・ル・ディスペンサーは、父と区別して小ディスペンサーと呼ばれる、イングランドの廷臣で貴族である。1290年ごろ、一説には1286年ごろに生まれ、1326年11月24日に処刑された。父はのちに初代ウィンチェスター伯となる同名のヒュー・ル・ディスペンサーで、母イザベラは第9代ウォリック伯ウィリアム・ド・ビーチャムの娘である。父方の祖父は1265年のイーヴシャムの戦いで反乱諸侯の側について戦死している。一家は小貴族の出で、父は1295年の議会でディスペンサー男爵位を得ていた。
ヒューが騎士に叙されたのは1306年とも1309年ともいわれる。1306年には、エドワード1世の孫娘エレノア・ド・クレアと結婚した。この結婚は、王が父ヒューに負っていた借金の埋め合わせだったとも考えられ、当時の彼は大きな財産のない若い貴族で、義兄ギルバート・ド・クレアの遺産を受け継ぐことを期待するほかなかった。1311年ごろまでは反国王派の諸侯に属していたとみられるが、その後は国王エドワード2世に忠実になった。1312年に王の寵臣ギャヴィストンが諸侯に殺されると、ヒューはかわって国王の最大の寵臣となり、父とともに宮廷を取り仕切るようになった。1314年7月29日には議会に召集されてディスペンサー男爵となった。
1314年、ギルバート・ド・クレアがバノックバーンの戦いで戦死した。エレノアは二人の姉妹とともにクレア家の領地の相続人となった。ヒューは1317年にグラモーガンを含むクレア家の領地の3分の1を受け取り、ウェールズ辺境で最も有力な領主の一人となった。1318年には王の侍従長となった。ウェールズ辺境の所領を広げようとして、国王の後ろ盾のもと、近隣の領主との争いで他人の土地を不法に奪うこともあった。こうして敵を作り、バノックバーンの敗戦で権威を落とした王に代わって実権を握った反国王派のリーダー、ランカスター伯トマスとの対立も深まった。1321年に諸侯の反乱が起こると、ヒューは父とともに国外へ追放されたが、翌1322年には王の求めで帰国した。ランカスター伯は国王軍を攻めたが、3月16日のバラブリッジの戦いで敗れ、処刑された。ヨークの議会は、1311年に反国王派が制定した王権を制限する法令を廃止し、国王と寵臣のディスペンサー父子が権力を取り戻した。
以後は妨げもなく勢いをふるった。実務を嫌う王にかわって実務を取り仕切ったのは息子のヒューで、この時期はエドワード2世の治世でもっとも行政改革が進んだ。その恩賞で所領を次々と得て、4年のあいだに39通の授封証書を王から受けた。だが急速な出世は各地に敵を作り、辺境諸侯の警戒も招いた。1324年9月には王妃イザベラの所領を没収し、王妃も敵に回した。ガスコーニュで戦争の前ぶれが起きており、フランス人の王妃の所領がフランス軍の足がかりにされるのを恐れたためである。1325年、王妃は使節を装ってフランスへ渡り、追放されたディスペンサーの反対者たちを集めた。
1326年9月、王妃と辺境諸侯の一人ロジャー・モーティマーの率いる軍がサフォークに上陸した。王やディスペンサー父子に味方する者はほとんどなく、軍は各地で歓迎された。王とディスペンサー父子はウェールズへ逃れたが、グラモーガンで王とともに捕らえられた。父はすでにブリストルで裁判なしに処刑されていた。ヒューはヘレフォードへ連行され、裁判で反逆者と宣告されて、首吊り、内臓抉り、四つ裂きの刑に処された。翌1327年には、エドワード2世も議会の決議で廃位され、王妃の密命で殺された。
同じ年に亡くなった人物
- Al-Hilli (1326年没)
- ヴァルティスラフ4世 (ポメラニア公) (1326年没)
- レイナウト1世 (ゲルデルン伯) (1326年)
- レオポルト1世 (オーストリア公) (1326年没)
- オスマン1世 (1326年没)
同じ地域に関係する人物
- フランシス・ゴッドウィン (1633年没)
- オウエン・テューダー (1461年没)
- クリス・ローレンス (2011年没)
- マイケル・ファラデー (1867年没)
- エゼルベルト2世 (794年没)