伝記
ポール・ヴァレリーは、1871年10月30日、地中海沿岸のエロー県の港町セットに生まれたフランスの詩人、小説家、評論家である。多岐にわたる旺盛な著作活動により、フランス第三共和政を代表する知性と称された。父はコルシカ島出身の税官吏で、祖先は船乗り。母はトリエステ生まれで、この町に駐在したイタリア領事の令嬢だった。少年期は読書を好み、1884年にモンペリエに移ってリセに入った。祖父のような船乗りに憧れたが、父の反対と数学の不得手で挫折した。1887年に父を亡くし、1888年にモンペリエ大学の法学部に入ると、ポーやボードレールの詩に熱中した。象徴主義や高踏派を知り、ユイスマンスの『さかしま』に引用されたヴェルレーヌやランボー、マラルメの詩の断片に魅せられた。
1890年に詩人ピエール・ルイスと知り合い、ルイスを通じてアンドレ・ジッドとも出会って、終生の友情を結んだ。マラルメに手紙を書き、返事ももらった。1891年にルイスらの同人誌に「ナルシス語る」を投稿し、日刊紙で激賞されて、最も才能豊かな三人の青年作家の一人とも評された。大学を卒業すると、文学で身を立てようとパリに出て、マラルメの毎週火曜の集まりに参加した。しかし1892年にジェノヴァに滞在した頃から、詩人としての才能を疑い、文学的な営みに激しい嫌悪を抱いて、文学から遠ざかった。片思いなどの雑多な思考を切り捨てて、知性のみを崇拝することを決意し、これは記録的な嵐の夜と同時期とされ、「ジェノヴァの夜」と呼ばれる。1894年から、公表を前提としない思索の記録『カイエ』をつけ始め、その量はおよそ2万6千ページに及んだ。1895年に評論『レオナルド・ダ・ヴィンチの方法序説』、1896年に小説『テスト氏との夜会』を発表した後は、20年に及ぶ文学的沈黙に入った。
1897年から1900年は陸軍省に勤めた。1898年にはマラルメの死に深い悲しみを抱いた。ドガらの印象派の画家とも親交があり、1900年に画家ベルト・モリゾの姪ジャニと結婚し、ベルトの娘が暮らすパッシーの同じ建物に、亡くなる1945年まで住んだ。アヴァス通信社の社長の私設秘書として生計を立てた。1913年にジッドに請われて旧作の詩をまとめるうち、「若きパルク」を書き、1917年に雑誌で発表して一躍名声を得た。1920年の「海辺の墓地」も高く評価され、1921年には現代七大詩人に選ばれた。『ユパリノス』(1921年)や『魅惑』(1922年)で名声は外国にも広がり、雇い主の死を機に文人としての生活に入った。1919年にロンドンの週刊誌に発表した、ヨーロッパの精神史を論じた文章に、フランス語版で「精神の危機」の題が付けられた。
1925年にアカデミー・フランセーズ会員に選ばれた。1928年には国際連盟の知的協力会議の議長を務め、1936年にコレージュ・ド・フランスの教授に選ばれて、翌年から詩学講座を担当した。第二次世界大戦では、1940年秋にドイツ占領下のパリへ戻り、講義を続けたが、政権には批判的で、地中海中央研究所の所長を解任された。1942年には『邪念その他』の用紙配給をドイツ軍に一時差し止められた。1945年5月に病床に就き、7月20日に死去した。翌日、ド・ゴールの要請で、戦後のフランス初の国葬が営まれた。遺骨は故郷セットの墓地に葬られ、墓石には「海辺の墓地」の一節が刻まれている。堀辰雄は小説『風立ちぬ』の冒頭に、自ら訳した詩「風立ちぬ、いざ生きめやも」を引いた。
同じ年に亡くなった人物
- 伊藤整一 (1945年没)
- ヴィレーム・マテジウス (1945年没)
- アレクサンダー・グラナック (1945年没)
- エーリッヒ・ベーレンフェンガー (1945年没)
- ペーター・ラーベ (1945年没)
同じ地域に関係する人物
- アンドレ・ジル (1885年没)
- ロベール・イルシュ (2017年没)
- ルネ・マウ (1975年没)
- マルセル・エイメ (1967年没)
- ピエール・アメデ・ジョベール (1847年没)