HISTORICAL PERSON · 1945年没

ジョージ・パットン

米国の陸軍大将。「大胆不敵であれ」をモットーとし、由緒ある軍人一家に生まれ、幼い頃から将軍を志した。

生涯
1945年没
死亡地
ドイツ連邦共和国(バーデン=ヴュルテンベルク州 / ハイデルベルク)
出生地
アメリカ合衆国(サン・ガブリエル)
出典
世界地図
ドイツ連邦共和国(バーデン=ヴュルテンベルク州)

伝記

ジョージ・スミス・パットン・ジュニアは、1885年11月11日、カリフォルニア州サンガブリエルに生まれたアメリカの陸軍軍人で、最終階級は大将である。祖父は南北戦争で南軍の将校として戦死しており、独立戦争の准将ヒュー・マーサーの血も引く軍人一家に属し、本人もそれを強く意識していた。バージニア州立軍事学校とウェストポイントの陸軍士官学校で学んだ。幼いころから将軍を夢見て、妹と軍人ごっこをするときには、すでに「パットン中将」を名乗っていたという。古典文学と戦史を学ぶ知的な子供だったが、読み方を覚えるのが遅く、士官学校でも数学の単位が足りずに留年した。今でいう失読症だったといわれる。輪廻転生を信じ、自らをカルタゴのハンニバルの再来だと主張したと多くの文献が記している。

ウェストポイント卒業後、近代五種競技のアメリカ代表として1912年のストックホルムオリンピックに出場し、強豪のヨーロッパ勢の中で5位に入った。帰国後に騎兵用サーベルの研究を軍の雑誌に寄稿し、これが目に留まって1913年型騎兵刀を設計した。これは1934年に騎兵のサーベルが廃止された時、米軍最後のサーベルとなった。1916年のメキシコ国境戦役ではパーシング准将の副官となり、パンチョ・ビリャの護衛隊指揮官を殺害して評価を上げた。第一次世界大戦では大尉に昇進し、フランスで新編のアメリカ戦車部隊の戦闘指揮を任され、ムーズ・アルゴンヌの作戦で左脚に被弾して負傷した。戦時昇進で大佐になったが、終戦で少佐に降格している。塹壕戦は無意味で、次の戦争は機動力で決まると信じていた。

1919年のワシントン勤務中にアイゼンハワーと親友になり、これが後の人生に大きな影響を与えた。1920年代前半には議会に機甲部隊の予算を求めたが認められなかった。平和な戦間期は耐えがたかったらしく、娘の親友との不倫で離婚寸前になったり、癇癪を起こしたり、酒に溺れたりしたが、戦争が近づくと生気を取り戻し、1938年に大佐へ昇進すると、アメリカの参戦が待てないと公言した。ドイツの電撃戦を見て機甲師団の必要性が認識されると、准将、のち少将に昇進し、第2機甲師団を率いた。

第二次世界大戦では、1942年11月にトーチ作戦でモロッコに上陸し、1943年3月に中将に昇進して第2軍団を率いた。カセリーヌ峠で大敗した軍団の規律を厳しく建て直し、常に前線で指揮を執り、5月までに英軍とともにドイツ軍を北アフリカから駆逐した。1943年7月には第7軍を率いてシチリア島へ上陸し、パレルモを解放して、メッシナを英軍より先に占領した。しかしこの作戦中、野戦病院で砲弾神経症の兵士を臆病者として殴打した「兵士殴打事件」を起こし、アイゼンハワーに報告されて大事件となった。パットンは第7軍の指揮を外され、カイロで10か月近く待機した。1944年6月のノルマンディー上陸作戦では、見せかけの欺瞞部隊の指揮を命じられ、戦争好きの彼には耐えがたい日々だったようだ。上陸後に第3軍司令官として前線に復帰し、コブラ作戦で戦線を突破して大進撃を始めた。ファレーズ付近でドイツ軍を包囲殲滅し、2週間で600マイル前後を進撃した。補給不足でロレーヌの進撃が停滞し、メッツの占領は11月23日となった。12月のバルジの戦いでは、準備を整えていた第3軍を北へ向け、包囲されたバストーニュの第101空挺師団を救出した。1945年12月21日に没した。

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