HISTORICAL PERSON · 1945年没

フェードア・フォン・ボック

ドイツの陸軍元帥。プロイセンの軍人の家に生まれ、士官候補生から昇進を重ねた。外国語に堪能で、第二次世界大戦期にも軍を率いた。

生涯
1945年没
死亡地
ドイツ連邦共和国(シュレースヴィヒ=ホルシュタイン州 / オルデンブルク・イン・ホルシュタイン)
出生地
ポーランド共和国(コストシン・ナド・オドロン)
出典
世界地図
ドイツ連邦共和国(シュレースヴィヒ=ホルシュタイン州)

伝記

フェードア・フォン・ボックは、1880年12月3日にプロイセン王国のキュストリン(現在のポーランド領コストシン・ナド・オドロン)で、古いプロイセンの軍人の家に生まれたドイツの陸軍軍人である。父カール・モーリッツは陸軍少将で、普仏戦争に師団指揮官として従軍し、セダンの戦いでの勇敢さで表彰された。母オルガ・ヘレネ・フランツィスカは、のちに参謀総長となるエーリッヒ・フォン・ファルケンハインの妹であった。8歳でベルリンの陸軍の学校に入り、現代語、数学、歴史などが得意で、フランス語を流暢に話し、ロシア語や英語もこなした。父の影響で、国家への揺るぎない忠誠と軍人という職業への献身を身に付け、ドイツ兵にとって最大の栄光は祖国のために死ぬことだと語って、「キュストリンの聖なる火」というあだ名で呼ばれた。

1898年3月に士官候補生となり、1905年に大隊副官、1907年に連隊副官となった。同じ1905年に、貴族の娘マリー・フォン・ライヒェンバッハと結婚し、娘が一人生まれた。1908年からプロイセンの参謀学校で学び、1910年から1912年まで参謀教育を受けて、参謀本部に配属された。第一次世界大戦には参謀将校として従軍し、東部戦線のゴルリツェ=タルヌフ攻勢などに加わった。1916年に少佐に昇進し、1918年4月、春季攻勢での参謀としての働きにより、プロイセンの最高位のプール・ル・メリット勲章を受けた。

大戦後も軍備制限されたヴァイマル共和国の陸軍に残り、第3師団参謀長を経て、1929年2月に少将、1931年2月に中将に昇進し、第2軍管区司令官に任命された。1933年に政権を握ったナチ党には、中立的な姿勢であった。1938年のオーストリア併合では、第8軍司令官として進駐した。その年に第1軍集団司令官となり、ポーランド侵攻を控えた翌年8月に北方軍集団司令官に任命された。1939年のポーランド侵攻では北方軍集団、1940年の西方電撃戦ではB軍集団の司令官として指揮し、パリ入城式を挙行して凱旋門をくぐった。その戦功で同年7月に陸軍元帥に昇進し、60歳の誕生日にはヒトラーから10万ライヒスマルクを下賜された。

1941年6月に始まったバルバロッサ作戦では中央軍集団司令官としてミンスクやスモレンスクを攻略し、12月には隷下の部隊がモスクワ前面30キロメートルに迫った。しかしソ連軍の激しい反撃と猛烈な寒波で攻撃は頓挫し、ヒトラーによって解任された。1942年1月にライヒェナウ元帥が事故死すると南方軍集団司令官に任命されたが、夏の攻勢の作戦指揮をめぐってまたヒトラーと対立し、7月に再び解任された。以後は前線に復帰しなかった。前線後方でのユダヤ人の大量虐殺に抗議し、軍上層部に担当将校の処罰を要請したこともあったが、黙殺された。甥のヘニング・フォン・トレスコウから反体制グループへの参画を打診されたが、これは拒否した。1945年4月にヒトラーが自殺すると、大統領に任命されたデーニッツ海軍元帥の要請で、連合国との停戦交渉の任にあたることになった。5月3日にキール近郊で、乗っていた車がイギリス軍機の銃撃を受け、翌日、元帥は死亡した。同乗した妻と娘、運転手も死亡した。

同じ年に亡くなった人物

同じ地域に関係する人物