伝記
デビッド・ロイド・ジョージは、1863年1月17日にイングランドのマンチェスターで生まれたイギリスの政治家で、のちに初代ドワイフォーのロイド=ジョージ伯爵となった。父は教師のウィリアム、母はウェールズ出身のエリザベスである。父は1864年に教職を退き、ウェールズに小さな農場を購入して一家で移ったが、同年のうちに肺炎で亡くなった。母は三人の子を連れて、靴屋を営む兄リチャード・ロイドのもとに身を寄せた。伯父は非国教徒でウェールズ愛国者であり、地主の不興を恐れずに自由党支持を公言した。後年は貧しい家庭で育ったかのように語ったが、実際には割合に恵まれた中産階級の家だったようである。
国教会が管理する小学校では成績は優秀だったが、国教会の信仰を押し付けられることには強く反発した。愛読書はユーゴーの『レ・ミゼラブル』で、弱者への共感を培った。地主に土地を追われた小作人の子が学校を去る光景を目にして、地主を憎んだという。1878年、15歳で弁護士事務所に書生として入り、働きながら法学書を読みあさった。1884年に弁護士資格を取って、事務所を独立開業した。国教会の墓地に非国教徒の埋葬が拒まれた事件の弁護でウェールズ民族主義者として名を馳せた。
1890年に補欠選挙に自由党候補として出馬し、庶民院議員に初当選した。1899年に勃発した第二次ボーア戦争では反戦運動を主導して知名度を上げ、1902年にはバルフォア教育法への反対運動を率いた。1905年12月に成立した自由党政権に通商大臣として入閣し、1908年にアスキスが首相となると大蔵大臣に転じた。同年に、70歳以上の高齢者に年金を支給する無拠出老齢年金制度を創設した。1909年4月には、累進課税の強化や相続税の増額、土地課税など、富裕層から税を取る「人民予算」を提出した。保守派と地主貴族の強い反発を受けて貴族院で否決されたが、1910年4月に成立させた。1911年には国民保険法の制定を主導し、健康保険と失業保険の制度ができた。
第一次世界大戦の勃発直後は参戦に反対していたが、まもなく参戦派に転じ、この転向を受けてアスキス内閣は参戦を決めた。1915年5月から軍需大臣を務め、1916年6月にキッチナー元帥が死亡すると陸軍大臣となった。優柔不断なアスキスを戦争指導から遠ざけて、強力な政府をつくる必要を感じ、1916年12月に少数閣僚による軍事委員会の設置を要求した。アスキスが応じないと辞職を表明し、保守党の閣僚たちも辞職を表明したため、内閣は総辞職に追い込まれた。自らが首相となって組閣し、食料の配給制に移行し、商船を船団にして海軍に護衛させ、ドイツの無制限潜水艦作戦に対抗した。1918年2月には30歳以上の女性に選挙権を認める選挙法改正を行った。
1919年のパリ講和会議では、ウィルソンやクレマンソーらと会議を主導し、ドイツに突きつける講和条件を決めた。1921年にはアイルランド自由国としての独立を認めた。1922年のチャナク危機で強硬姿勢をとり、国内世論の批判を集めると、保守党議員が離反して、10月に大連立が解消され、総辞職した。退任後は、自由党の没落に危機感を抱き、1926年末にアスキスの引退により党首となった。ケインズをブレーンに、公共事業による雇用創出を訴え、のちのケインズ主義の先駆けとなったが、当時は相手にされなかった。1940年5月の庶民院での演説は、チェンバレンの失脚とチャーチルの首相就任の一因となった。1944年末に伯爵に叙せられ、1945年3月26日に死去した。
同じ年に亡くなった人物
- キリル (プレスラフ公) (1945年没)
- Maryja Mahdaliena Radzivil (1945年没)
- クラーラ・ペタッチ (1945年没)
- サロメーヤ・ネリス (1945年没)
- ジョン・ブレイ (1945年没)
同じ地域に関係する人物
- ヘンリー・デ・マシュー (初代ゴールウェイ伯爵) (1720年没)
- グリフィズ・アプ・サウェリン (1063年没)
- ジョー・ブラウン (2020年没)
- リチャード・ヒューズ (1976年没)
- バートランド・ラッセル (1970年没)