HISTORICAL PERSON · 1335年没

アブー・サイード

イルハン朝の第9代君主で、オルジェイトゥの子。9歳でホラーサーンの統治を任され、12歳で推戴された。大元帥チョバンを代理官とし、治世初期にワズィールのラシードゥッディーンが処刑された。

生涯
1335年没
死亡地
アルメニア共和国(キャルバジャル県 / カラバフ)
出生地
イラン共和国(タブリーズ)
出典
世界地図
アルメニア共和国(キャルバジャル県)

伝記

アブー・サイードは、イルハン朝の第9代君主(イルハン)である。1304年6月2日、第8代君主オルジェイトゥと妃ハーッジー・ハトゥンの子としてベルクイの地に生まれ、一週間後から将軍アミール・セヴィンジ夫妻のもとで育てられた。1313年、9歳で父からホラーサーンの統治を任された。1316年には、投降を申し出たヤサヴルの件で父の援軍を得て、チャガタイ・ウルスのエセン・ブカ・ハンの軍を駆逐し、戦利品と捕虜を得た。この年の12月に父が36歳で亡くなると、首都の重臣たちはセヴィンジに権力が集中することを恐れ、スルドス部の将軍チョバンに大元帥の称号を与えて均衡を図った。1317年4月、スルターニーヤのクリルタイで12歳のアブー・サイードが第9代イルハンに推戴され、父の遺言に従ってチョバンをスルターン代理官に指名した。

即位の年、二人のワズィール(宰相)のうちアリー・シャーが、対立するラシードゥッディーンを讒言し、10月に罷免に追い込んだ。反対していたセヴィンジは1318年1月に病没した。1318年春、チョバンがラシードを復職させようとすると、不安になったアリー・シャーらは、故オルジェイトゥ・ハンがラシード父子に毒殺されたという偽りの告発をし、ラシードとその子は7月に処刑された。同じ年、帰順していたヤサヴルが反乱を起こし、ジョチ・ウルスのウズベク・ハンやマムルーク朝も攻め込んできた。アブー・サイード自身はウズベク・ハンに当たり、手勢が数千となったところへチョバンが救援に戻って敵軍を敗走させた。1319年には、厳罰を受けた将校クルミシらがチョバンを襲撃した。クルミシらはチョバンが反乱を起こしたと偽って報告したが、アブー・サイードは偽りと知って軍を起こし、反乱者を捕らえて処刑した。この戦いでの勇気からバハードゥル・ハンの称号を加えられ、9月にはチョバンの願いを入れて妹サティ・ベクを嫁がせた。

1320年、ヤサヴルは殺害された。そのころ諸州では蝗害や飢饉、大雹や洪水があり、法学博士らが圧政や暴政、寺院の近くにある酒店などの存在を原因としたため、禁酒令を出して穀物税を廃止した。マムルーク朝のスルターンが亡命者の暗殺のためにタブリーズへ暗殺者30人を送り込むと、自分たちも狙われるかもしれないと恐れ、チョバンの提案で和平を結び、往来の自由などを約束した。1322年には、チョバンの子のティムール・タシュが反旗を翻したが、チョバンが捕らえて連行し、アブー・サイードは父の功績に免じて赦した。

1325年、21歳のアブー・サイードは、チョバンの娘でシャイフ・ハサンの妻であるバグダードに横恋慕し、チョバンにはぐらかされた。チョバン派をねたむワズィールのルクン・ウッディーンの讒言にも心を動かされていった。1326年、アブー・サイードの出兵中に政務を代行したチョバンの子ディマシク・ホージャは専横を極め、1327年、オルジェイトゥの宮嬪との私通で殺された。アブー・サイードはチョバン一味の殺害を諸将に命じ、チョバンは7万の軍を率いてイラークへ進んだが、逃亡者が相次ぎ、サティ・ベクも離れ、随行者は17人となってヘラート王に捕らえられ処刑された。アブー・サイードはすぐバグダード・ハトゥンを娶った。

1328年、ホラーサーンの司令官ナリン・トガイはワズィールの暗殺を図って失敗し、1329年10月に処刑された。1332年、ヘラートの重臣たちが王ハーフィズを暗殺して幼いムイッズッディーン・フセインを立てると、アブー・サイードはこれを承認した。1335年11月30日に亡くなった。

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