伝記
エルンスト・カルテンブルンナーは、1903年10月4日、オーストリア=ハンガリー帝国オーバーエスターライヒ州のリート・イム・インクライスに生まれた法律家、政治家で、ナチス親衛隊(SS)の高官である。父フーゴは弁護士で、母はテレーゼといい、カトリックの家庭で、祖父の代から弁護士の家系だった。7歳までラープで育ち、1913年にリンツの実科ギムナジウムに入学した。在学中に汎ゲルマン主義的で反教権主義的な学生団体に加入し、このギムナジウムにはアドルフ・アイヒマンも通っていて、二人は友人だったという。1921年秋にグラーツ工科大学に入り、はじめは化学を専攻したが、1923年に法学に転じ、1926年夏に法学博士の学位を取得した。本人は炭鉱で夜勤をしながらの苦学だったと語り、しばしば自分が労働者の友であることを強調していた。大学では別の学生団体に加わって中心的役割を占め、汎ゲルマン主義、反ユダヤ主義などに影響されて、ドイツ人によるドイツ・オーストリア統一を目指した。
1926年にリンツ地方裁判所で司法官試補の研修を受け、1928年には弁護士の事務所に就職した。しかし準軍事団体では、ドイツによるオーストリア併合に充分熱心とはいえなかったため、1930年10月18日にオーストリアの国家社会主義ドイツ労働者党に入党した。さらに1931年8月31日に親衛隊に入隊した。1932年から父の法律事務所で働き、ナチ党員の無料弁護にも奉仕した。1933年6月にドルフース首相がオーストリアのナチ党を禁止すると、1934年1月14日にエリーザベト・エーデルと結婚した翌日に、ナチ党員として逮捕され、同年4月まで収容所に入れられた。1935年5月にも国家反逆罪で再逮捕され、禁固6か月となって弁護士資格を奪われたが、ヒムラーはそれでもオーストリアに留まるよう命じた。しばしば密入国でドイツに入り、ヒムラーやハイドリヒに報告を行った。1937年1月20日、オーストリア全域の親衛隊の総指揮者となり、党内抗争で穏健派のザイス=インクヴァルトを支持して、対立する指導者らを失脚させた。
1938年3月にオーストリア併合が行われると、ザイス=インクヴァルトのもとで保安担当国務長官となり、ヒムラーの命令で、マウトハウゼン強制収容所の創設にも関与した。1939年1月にドイツ国会議員となり、ウィーンに本部を置く親衛隊及び警察高級指導者の職にあった。1942年6月に国家保安本部長官ハイドリヒが襲撃で負った傷により死去すると、ヒムラーが長官を兼務していたが、1943年1月30日に、カルテンブルンナーが後任に任命された。これによって彼は、ゲシュタポ、刑事警察、親衛隊情報部のほか、東部戦線の後方で多数の人々を殺害したアインザッツグルッペンなどの責任者となり、「ユダヤ人問題の最終的解決」の執行者となった。基本的にはヒムラーとハイドリヒがすでに敷いた路線を継承したにすぎないとされるが、ヨーロッパ中でユダヤ人狩りが組織的に実行され、数百万人が殺された。1944年3月にはハンガリーに赴いて、ユダヤ人移送への協力を取り付け、同年5月半ばから6月30日までの間に、約38万人がアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所へ送られた。ドイツの敗戦後、ニュルンベルク国際軍事裁判で戦争犯罪人として起訴され、死刑を宣告されて、1946年10月16日に絞首刑に処せられた。
同じ年に亡くなった人物
- サイモン・フレクスナー (1946年没)
- クルト・ダリューゲ (1946年没)
- エドワード・オッペンハイム (1946年没)
- イオン・アントネスク (1946年没)
- アレクサンドル・アレクサンドロフ (作曲家) (1946年没)
同じ地域に関係する人物
- ルドルフ・ダスラー (1974年没)
- フランツ・ラハナー (1890年没)
- ロジー・ミッターマイヤー (2023年没)
- ハンス・リヒター (指揮者) (1916年没)
- リリアン・ボード (1970年没)