伝記
ガートルード・スタインは、1874年2月3日、ペンシルベニア州ピッツバーグ近くのアレゲニーで生まれたアメリカ合衆国の著作家、詩人、美術収集家である。ドイツ系ユダヤ人移民の教養ある両親の5番目の子として生まれた。父ダニエルは鉄道会社の役員で、路面電車や土地への堅実な投資で富を築いていた。3歳のとき、事業の都合で一家はウィーンへ、続いてパリへ移り、1878年にアメリカへ戻ってカリフォルニア州オークランドに定着した。1888年に母アメリアが、1891年に父が亡くなると、長兄のマイケルが事業と投資を引き継ぎ、弟妹の面倒も見た。スタインは人生の大半を、兄マイケルの投資から生まれる利益で暮らした。マイケルは、ガートルードと姉のバーサを、ボルチモアにいた母の実家に預けた。そこでクラリベル・コーンとエッタ・コーンに出会い、二人が開いていた土曜の夜のサロンは、後に自分が開くサロンのモデルになった。
1893年から1897年までマサチューセッツ州のラドクリフ・カレッジで学び、心理学者ウィリアム・ジェームズの教えを受けた。ジェームズは、意識の流れの手法や自動書記における彼女の能力を見抜いて奨励し、心理学的実験の学びは、後の作品の表現に生かされることになる。1897年の夏には海洋生物学研究所で発生学の研究をし、その後の2年間はジョーンズ・ホプキンス医学校で学んだが、1901年に学位を取らずに退学した。1903年、芸術家が集まるパリのモンパルナスへ移り、美術批評家の兄レオと共に暮らし始めた。1903年10月には初期の作品『証明されるべきこと』を完成させている。1904年に30歳になった彼女は、書くことが自分の小さくて厳しい現実だと、はっきり決めたと伝記作者は見ている。
兄妹は現代美術の初期作品の収集を始めた。1904年末、マイケルから信託資金に思いがけない大きな収入があったと知らされ、これを使ってヴォラールの画廊でゴーギャンやセザンヌ、ルノワールの作品を購入した。ピカソやマティス、ドラン、ブラック、フアン・グリスら若い画家たちの初期の絵画も所有し、ピカソとは友人になって肖像画を描いてもらった。フルリュース通り27番の住居には、土曜夜のサロンに詩人アポリネールらが集まった。1905年のパリのオータム・サロンではフォーヴィスムがパリ画壇に衝撃を与え、1913年のニューヨークのアーモリーショーは現代美術をアメリカに紹介した。兄妹の収集品は、どちらの展示にも貸し出された。セザンヌの『マダム・セザンヌの肖像』に衝動を受け、1905年の春に『3つの生命』を書き始め、翌年に書き上げた。『アメリカ人の形成』の執筆は1906年から1908年とされるが、伝記作者によれば、開始は1902年にさかのぼり、完成は1911年までかかったという。
1907年9月8日、のちの終生のパートナー、アリス・B・トクラスと出会った。ちょうどそのころ、ピカソの画風がキュビスムに変わり、スタインの作風も変化したが、兄レオはその変化に不同意を示した。1908年の夏、スタインとアリスはイタリアのフィエゾレで過ごした。1930年代の半ばに『アリス・B・トクラスの自伝』で成功した後は、印税でも裕福になった。パリで画家や詩人たちが集うサロンを開き、そこに集う芸術家たちと交流するなかで、現代芸術と現代文学の発展のきっかけを作ったともいわれる。1946年7月27日に没した。
同じ年に亡くなった人物
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- レオン・ゴーモン (1946年没)
- アーサー・ダヴ (1946年没)
- ジェームズ・ジーンズ (1946年没)
- アルシデス・アルゲダス (1946年没)
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