HISTORICAL PERSON · 1946年没

ヴィルヘルム・フリック

ヒトラー内閣の内務大臣を務めたナチ党の政治家。全権委任法やニュルンベルク法の制定に大きく貢献し、ニュルンベルク裁判で処刑された。

生涯
1946年没
死亡地
ドイツ連邦共和国(バイエルン州 / Nuremberg Court Prison)
出生地
ドイツ連邦共和国(アルゼンツ)
出典
世界地図
ドイツ連邦共和国(バイエルン州)

伝記

ヴィルヘルム・フリックは1877年、バイエルン王国アルゼンツに教師の息子として生まれた。カイザースラウテルンの学校を経て、1896年からゲッティンゲン、ベルリン、ミュンヘン、ハイデルベルクの各大学で学び、1901年に法学博士号を得た。1900年から1903年まで弁護士を務め、1903年に判事補試験に合格して税務を担当した。翌年からバイエルン王国の司法機関で働き、1905年にミュンヘン警察本部の次席検事、1907年にはピルマーゼンスの管区庁試補となった。1917年、ミュンヘン警察本部で不当利得や密売買を取り締まる部署の部長に就いた。第一次世界大戦には従軍していない。1919年、政治警察長としてバイエルン・レーテ共和国の樹立騒ぎに際した共産主義者の取り締まりにあたり、1921年には警察第3局課長、1923年2月には刑事警察長に任じられた。

1923年、警察に集会申請を持参したアドルフ・ヒトラーと初めて会い、ナチ党に入党した。同年11月のミュンヘン一揆に参加して逮捕され、公務員の服務規定違反で職を失った。一揆裁判では15か月の禁固刑を言い渡されたが、執行猶予となって判決後に釈放された。1924年にはナチ党の友党から国会議員に当選し、ユダヤ人の公職就任禁止やユダヤ人と非ユダヤ人の婚姻禁止を求める法案を提出した。ナチ党再建後の1925年に再入党し、1928年には党の国会議員団長となった。議員の立場を使ってヒトラーのドイツ市民権取得に尽力し、小さな町の公務員職はヒトラーが拒んだため、1932年2月にブラウンシュヴァイク州のベルリン駐在公使館付参事官という形で取得を実現させた。

1929年の選挙後、テューリンゲン州でナチ党が連立に加わり、1930年1月にフリックは州内務大臣兼教育大臣に就任した。ナチ党員が州政府の閣僚となった最初の例である。州警察から共和政を支持する警察官を追放し、ナチ党員や支持者を登用した。大学に人種学の特別講座を設け、反戦映画の上映やジャズを禁じ、芸術大学では近代美術や近代音楽を排除した。1931年に州大臣を辞任し、翌年にはミュンヘンの行政機関に戻った。

ヒトラーが首相となった1933年、フリックは内務大臣として入閣した。全権委任法に署名し、同年の党と国家の統一法にも関わって、独裁体制と一党支配の成立を支えた。州の自治権を取り上げ、中央政府に警察権を集める政策を進めた。プロイセン州ではゲーリングと権限を争い、1933年末から翌年初めにかけ、プロイセン州を除く各州の警察権をヒムラーに委ねた。1936年、ヒトラーがヒムラーの全ドイツ警察長官就任を認めると、フリックは抗議したが説得され、自らヒムラーをその職に任じた。内務省はユダヤ人を社会から排除する法律や、長いナイフの夜の粛清を正当化する法律を起草し、ニュルンベルク法の制定にも関与した。

1938年にはゲシュタポが内務大臣の承認なしで拘禁できるようになり、フリックの警察への影響力はさらに失われた。1943年に内務大臣を解任され、ベーメン・メーレン保護領総督に転じたが、実権は保護領担当国務相カール・ヘルマン・フランクが握っていた。1945年に連合軍に逮捕され、ニュルンベルク裁判で平和に対する罪、戦争犯罪、人道に対する罪について有罪となった。1946年10月16日に絞首刑に処された。

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