伝記
ヴィルヘルム・マルクスは、1863年1月15日、ケルンで、カトリックの学校の校長ヨハン・マルクスと妻ゲルトルートの子として生まれた。姉妹のバルバラは、のちにケルンのウルスラ会の長を務めた。1881年にギムナジウムの修了試験に合格し、1881年から1884年までボン大学で法学を学んだ。学生のころはカトリック学生団体に所属した。1888年にプロイセンの文官の第二次国家試験に合格してケルンとヴァルトブレルで試補として働き、のちにジンメルンの不動産登記所に勤めた。1891年にヨハンナ・フェルコイエンと結婚して子をもうけ、1894年にエルバーフェルトの判事となり、ケルン、デュッセルドルフの裁判所を経て、1921年にリンブルクの裁判所長、同年9月にベルリンの最高裁判所の部長となった。1919年以前の帝政下では、プロテスタントのプロイセンが主導権を握っていたため、敬虔なカトリックで中央党員だった彼には、裁判官としての出世に限界があった。
政治活動はエルバーフェルトで始まり、1899年から1918年までプロイセン王国議会の議員を務め、1910年から1918年にはドイツ帝国議会の議員でもあった。1911年には、学校の世俗化に対抗するカトリックの学校団体をデュッセルドルフで創設している。政治家としては冷静で穏健であり、妥協を探って敵を作らないタイプと評された。第一次世界大戦中は、勝利による拡張的な和平ではなく、講和による和平を主張し、1917年の帝国議会の平和決議を支持した。戦後はヴァイマル制憲会議の議員となり、ラインラント分離に反対して、ヴェルサイユ条約の受諾に賛成した。受諾しなければフランスがラインラントを併合すると恐れたためである。1921年にエルツベルガーが暗殺されると、中央党の議員団長となり、1922年1月には党首になった。
1923年11月、シュトレーゼマン内閣が倒れると、エーベルト大統領の求めで組閣した。第1次マルクス内閣は、1919年からの4年間ですでに10番目の内閣だった。マルクスは第1期と、1926年から1928年にかけての第2期を合わせて4次の内閣を組織した。在任中は一貫してシュトレーゼマンが外相を務めた。ザクセン州やバイエルン州との紛争、故郷ラインラントの分離独立運動、1923年のインフレなどの危機に向き合い、新通貨の導入と緊縮財政で経済の安定に努め、1924年2月には戒厳令を解除した。ドーズ案を受け入れたのもこの時期である。しかし1924年12月の総選挙で議席を減らし、第1期は退陣した。1925年2月にプロイセン自由州首相に就いたが、エーベルトの死去を受けて大統領選挙に出るために辞任した。協力を見込んだカトリック勢力がヒンデンブルク支持に回ったため、僅差で落選した。
1926年、ルター内閣の法相を務め、内閣が倒れると第3次内閣を組織した。国防軍を「国家内国家」にしていたゼークトを辞職に追い込み、ドイツの国際連盟加盟も実現させた。しかし社会民主党のシャイデマンに、国防軍とソ連軍の秘密協力を議会で暴露され、内閣は辞職に追い込まれた。1928年5月の総選挙で議席を減らし、第4次内閣は6月12日に退陣し、党の執行部からも退いた。通算在任期間は3年と73日で、ヴァイマル共和国では最長である。1932年に議員を辞し、ナチス・ドイツと第二次世界大戦の時代はボンの自宅に隠棲し、1946年8月5日に死去した。
同じ年に亡くなった人物
- ジョン・ヴェレカー (第6代ゴート子爵) (1946年没)
- イオン・アントネスク (1946年没)
- シャキーブ・アルスラーン (1946年没)
- ヘンリー・バーグマン (1946年没)
- アーモン・ゲート (1946年没)
同じ地域に関係する人物
- エアハルト・ミルヒ (1972年没)
- ヨアヒム・ビュヒナー (1978年没)
- Willy Bandholz (1999年没)
- アルフレート・クルップ (1887年没)
- Axel Freiherr von dem Bussche-Streithorst (1993年没)