伝記
ゲルハルト3世は、1293年ごろに生まれ1340年4月1日に没した、シャウエンブルク家のホルシュタイン=レンズブルク伯である。ホルシュタイン=レンズブルク伯ハインリヒ1世と、ハイルヴィヒ・フォン・ブロンクホルストの息子で、一族で最も重要な役割を果たした人物であったことから、ドイツでは「大伯」と呼ばれた。一方、デンマークでは「禿伯」の名で知られる。また一時期、シュレースヴィヒ公も務めた。
1304年に父ハインリヒ1世が死去すると、ゲルハルトはホルシュタイン=レンズブルク伯位を継いだ。従兄弟のヨハン3世はホルシュタイン=キール伯領を継承した。ゲルハルトの領地はホルシュタインの中で最も広大だったが、そのほかの領域は従兄弟らの領地で、繰り返しの相続によって分割されていた。1315年、ゲルハルトはヴェルレ侯ニコラウス2世の娘ゾフィーと結婚した。同じ年にホルシュタイン=ピンネベルク伯アドルフ6世が死去すると、ゲルハルトとヨハン3世は、未成年の息子アドルフ7世を排除してその領地を手に入れようとした。しかしホルシュタインの上級領主であるザクセン=ヴィッテンベルク公ルドルフ1世がこれを認めなかったため、アドルフ7世は領地を保つことができた。
そのころデンマークは厳しい内政状態に置かれていた。デンマーク王エーリク6世が戦費捻出のため領地を抵当に入れると、ゲルハルトはデンマークの大半を自らの影響下に置くことができた。ゲルハルトは1323年にクリストファ2世と相互防衛の協定を結んだともいわれるが、シュレースヴィヒ公エーリク2世の死後、両者の関係は急速に悪化した。ゲルハルトは姉妹の子にあたる若いヴァルデマーの後見を求め、ヨハン3世や不満を抱く貴族たちとともに、クリストファ2世を王位から退けた。そして1326年、自身の甥でエーリク2世の息子であるヴァルデマー3世を、クリストファ2世に代えてデンマーク王位につけることに成功した。1326年8月15日、ゲルハルトはシャウエンブルク家として初めてシュレースヴィヒ公となった。ヴァルデマー3世はシュレースヴィヒがデンマークと同君統治にならないことを保証しなければならず、後見人のゲルハルトは容易にこれを強要できた。
しかし、1330年にヴァルデマー3世が王位を失ってクリストファ2世が再び王となると、ゲルハルトはシュレースヴィヒ公領を手放すことになった。それでもデンマークとシュレースヴィヒで最も強大な権力を持つ人物であることに変わりはなかった。1332年にクリストファ2世が死去すると、ゲルハルトは「王国管理者」の称号で国を治めた。反対勢力の高まりと農民の反乱により、デンマークは無政府状態に陥った。貴族らはかつてクリストファ2世に反対してゲルハルトを支持していたが、このときはクリストファ2世の息子ヴァルデマー4世が王位につくことを求めた。
1340年、ゲルハルトはデンマークの騎士により殺害された。ユトランドのランダースで、貴族ニールス・エベセンに襲われたとも伝えられ、その動機は個人的な復讐だったのかもしれないとされる。息子らはデンマークにおける権利を放棄し、ホルシュタイン=レンズブルク伯領を継承した。ゲルハルトの名は、19世紀の内乱の間、シュレースヴィヒとホルシュタインを結びつけた人物としてシュレースヴィヒ=ホルシュタインで脚光を浴びた。一方デンマークでは、王国が危機にあるとき国を不安定にした侵略者と見なされており、2つの呼称はドイツとデンマークでの評価の違いを示している。
同じ年に亡くなった人物
- キョセ・ミハル (1340年(推定))
- バシレイオス (1340年)
- ニールス・エッベセン (1340年)
- ブダシリ (1340年没)
- ボレスワフ・ユーリー2世 (1340年没)
同じ地域に関係する人物
- Karen Hoff (2000年没)
- ギーダ (デンマーク王妃) (1040年代没)
- ヴァルデマー3世 (デンマーク王) (1364年没)
- ゴズフレズ (デンマーク王) (810年没)
- イェンス・クリスチャン・クリステンセン (1930年没)