HISTORICAL PERSON · 1947年没

ヨゼフ・ティソ

カトリックの司祭で政治家。ナチス・ドイツの傀儡政権とされるスロバキア共和国で、首相と大統領を務めた。

生涯
1947年没
死亡地
スロバキア共和国(ブラチスラヴァ県 / ブラチスラヴァ)
出生地
スロバキア共和国(ビツチャ)
出典
世界地図
スロバキア共和国(ブラチスラヴァ県)

伝記

ヨゼフ・ティソは1887年、当時オーストリア=ハンガリー帝国領だったナジビッチェに生まれた。ニトラ司教の援助でウィーンの神学校に進み、1909年に聖職者教育を修了した。学業では複数の言語を学び、司教秘書を務めた後、女子中等学校で神学を教えた。第一次世界大戦中は、主にスロバキア人兵士で編成されたハンガリー王国軍第71歩兵連隊の従軍司祭となり、戦地で大きな損害を目の当たりにした。戦後はニトラの神学校などで講師をしながらスロバキア人民党に加わり、司祭としての活動と政治を並行させた。

1924年、西部スロバキアのバーノウツェ・ナド・ベブラボウで教区司祭に就任し、翌年にはチェコスロバキア国会議員に初当選した。それ以前の選挙では落選を重ねていた。1927年に連立政権の厚生労働・スポーツ担当相となり、1930年にはスロバキア人民党の副党首に就いた。党はカトリック保守主義とスロバキア人の民族自決を掲げ、ティソは党内で精神的指導者として頭角を現した。1938年8月に党首アンドレイ・フリンカが死去すると事実上の指導者となり、10月にはスロバキア自治政府の首班に就き、人民党の正式な党首にもなった。11月8日の第一次ウィーン裁定で南部の領土をハンガリーに割譲することが決まると、スロバキアでは独立を求める動きが強まり、人民党は共産党を除く各党を吸収した。11月にはチェコスロバキア政府が自治を認めたが、ティソは同月末にスロバキア担当相を辞した。

1939年3月、チェコスロバキア政府は自治政府を解任し、ティソらを逮捕・軟禁したが、ティソはドイツの支援で脱出し、ベルリンに招かれた。ヒトラーは独立宣言を迫り、応じなければドイツ軍が介入すると通告した。ティソは独立案とドイツへの保護要請を携えて帰国し、3月14日、スロバキア議会は独立を宣言した。ティソは首相に選ばれ、10月には初代大統領となった。しかし新国家は実質的にドイツの傀儡政権で、独自の政治指導を行えなかった。独立直後にはハンガリー軍が侵攻し、ドイツの仲介でウィーン裁定の国境線が確定して、南部スロバキアを割譲することになった。

ティソは「保護条約」に従って首相ヴォイテフ・トゥカとともに親独政策を進め、1940年のザルツブルク会議では国家社会主義を促進することで合意した。スロバキア政府はユダヤ人を強制収容所へ移送するホロコーストに加担し、約七万人とも約六万人ともいわれるユダヤ人が命を落とした。カトリック保守派を基盤とするティソと、より強硬な政策を求めるトゥカの間では、次第に路線対立が生じた。1944年のスロバキア民衆蜂起はティソ政権側によって鎮圧され、その後ユダヤ人の移送も再開された。

1945年にソ連軍がスロバキアへ進むと、ティソは政府とともにオーストリアへ逃れ、のち南ドイツの修道院に潜伏した。6月に米軍に逮捕され、10月にチェコスロバキアへ引き渡された。1946年12月から翌年4月まで開かれた国民裁判で、戦争犯罪や対国家反逆などを問われて死刑判決を受けた。1947年4月18日、ブラチスラヴァで絞首刑に処された。遺体は殉教者として崇敬されることを避けるため、ひそかに埋葬された。

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