HISTORICAL PERSON · 1947年没

ゴッドフレイ・ハロルド・ハーディ

イギリスの数学者。数論と解析学の業績で知られ、インドのラマヌジャンを指導した。集団遺伝学のハーディー・ワインベルクの法則や随想『ある数学者の生涯と弁明』でも知られる。

生涯
1947年没
死亡地
イギリス連邦(ケンブリッジシャー / Nuffield Health Cambridge Hospital)
出生地
イギリス連邦(クランリー)
出典
世界地図
イギリス連邦(ケンブリッジシャー)

伝記

ゴッドフレイ・ハロルド・ハーディは1877年、イングランドのサリー州クランリーに生まれた。父は学校の事務長兼美術教師、母はリンカーン師範学校の上級女教師で、教育を重んじる家庭だった。幼いころから数字に強く、二歳で百万までの数を書き、教会では賛美歌の番号を因数分解して過ごしたという。クランリー校で学んだ後、数学の成績によって奨学金を得て、ウィンチェスター・カレッジに進んだ。

1896年、ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジに入学した。当初のウェッブの指導には満足できず、のちにラブの勧めでカミーユ・ジョルダンの解析学講義を読み、数学が本当に意味するものを学んだという。これによって大陸ヨーロッパのより厳密な数学の伝統に触れた。1900年にトライポス第II部に合格してプライズ・フェローに選ばれ、1903年に修士号を得た。1906年にはトリニティの数学講師となり、週六時間の授業以外を研究に充てられるようになった。英国の数学を厳密な証明を重んじる方向へ変えた人物と評され、本人は純粋数学を好み、数学の仕事は一日四時間ほどにとどめて、余暇にはクリケットを楽しんだ。

1911年からジョン・リトルウッドと協働し、解析学と解析的数論で多くの成果を上げた。二人の共同研究は数学史上でも特に成功した協力関係の一つとされる。円周法を用いたウェアリングの問題の研究や、素数論の定理・予想にもつながり、数論を予想に導かれる体系として発展させる一因となった。また1908年には、遺伝学者レジナルド・パネットから数学的な問題を示され、ヴィルヘルム・ワインベルクとは独立に集団遺伝学の基本原理を定式化した。この結果は後にハーディー・ワインベルクの法則と呼ばれた。本人は遺伝学に関心が薄く、議論を単純な数学として扱った。

1913年、インドの数学者シュリニヴァーサ・ラマヌジャンから届いた手紙を読んだ。最初はいたずらを疑ったものの、熟考の末に本物である可能性が高いと悟り、独学ながら非凡なラマヌジャンの才能を見抜いて、ケンブリッジへ招いた。二人は親密な共同研究者となり、整数の分割などに関する成果を生んだ。ハーディは講演でラマヌジャンとの関係を、自分の人生で唯一のロマンチックな出来事と呼んだ。ハーディは自分の数学上の最大の貢献を問われた際、ためらわずラマヌジャンを見いだしたことだと答えた。能力を数で表すなら自分を一、ヒルベルトを十、ラマヌジャンを百と評したことでも知られる。

1919年にオックスフォード大学の教授職へ移り、1928年度にはプリンストン大学に滞在してオズワルド・ヴェブレンと交流し、ギブズ記念講演も行った。1931年にケンブリッジへ戻った。ハーディは戦争や軍事への数学の応用を嫌い、自らの数学が「純粋」で無応用であることを望んだ。しかしラマヌジャンとの漸近公式は物理学で広く応用され、数論の仕事は暗号でも重要になった。1940年の随想『ある数学者の生涯と弁明』では、数学者の仕事と純粋数学への信念を語った。1939年に冠動脈血栓症を患ってテニスやスカッシュができなくなり、数学における創造的な能力も失われたとされる。1947年夏に自殺を図った後、同年12月1日、妹が読み上げるクリケット史を聞いている最中に急逝した。

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