伝記
ルドルフ・フランツ・フェルディナント・ヘスは1901年、ドイツ帝国のバーデン=バーデンに生まれた。元将校で商人だった父は厳格なカトリック信徒で、息子には聖職者になることを望んでいた。父は大人や目上の者を尊重するよう教え、ヘスは後年、その教えが自分に染みついていたと記している。第一次世界大戦中の1916年、ヘスは騎兵連隊に入り、オスマン帝国軍の軍団に属してイラクやパレスチナの戦線でイギリス軍と戦った。敗戦までに軍曹となり、鉄十字章を受けた。戦後はゲルハルト・ロスバッハ率いる義勇軍に加わり、農園で働いた。1922年にナチ党へ入党した。
1923年、義勇軍の仲間で教師だったヴァルター・カドウが殺害されると、ヘスはマルティン・ボルマンらとともに容疑者として逮捕された。1924年の裁判で重労働十年の判決を受け、ブランデンブルク刑務所に収監された。服役中に後の収容所運営に関わる経験を得たとされる。1928年、大統領による政治犯の大赦で釈放され、農業開墾団体に参加した。そこでハインリヒ・ヒムラーと知り合い、団体で出会った女性と1929年に結婚した。二人には五人の子が生まれた。1933年に親衛隊の見習い隊員となり、翌年、正式に入隊した。ダッハウ強制収容所で看守や管理担当を務め、1938年にはザクセンハウゼン強制収容所の副所長に任じられた。
1940年、ヒムラーの命令に基づき、ヘスはポーランドのオシフィエンチムに設置されるアウシュヴィッツ強制収容所の初代所長となった。収容所には当初、ドイツ人刑事犯やポーランド人政治犯が送られた。1941年には収容規模の拡大が命じられ、隣接地にビルケナウ収容所が建設された。同年、ヒムラーからユダヤ人絶滅計画を聞かされ、アウシュヴィッツをユダヤ人抹殺の拠点に改築せよと命じられた。所長代理が行ったチクロンBによる殺害実験の報告を受け、ヘスはこれを大量殺害に用いる方法として採用した。到着したユダヤ人は労働できるかどうかで選別され、働けないとされた人々はガス室に送られた。1941年に脱走者が出た後、無作為に選ばれた十人を餓死刑にする措置が取られた際、カトリック司祭マキシミリアノ・コルベが身代わりを申し出ることを認めたのもヘスであった。犠牲者数には資料間で幅があり、ヘス自身は戦後の裁判で二百五十万人と証言した。資料が紹介する現在の主流の見解は約百十万人である。
1943年、収容所内の殺人や汚職の捜査を受け、ヘスはアウシュヴィッツ所長を退いた。その後は親衛隊の中央部局で各収容所の報告や運営に関わり、1944年には一時、再び同収容所の所長となった。ドイツ敗戦が迫ると海軍兵士を装ってイギリス軍の捕虜となったが、一度釈放された。1946年に逮捕され、ニュルンベルク裁判では証人としてアウシュヴィッツでの大量殺害を証言した。ポーランドに引き渡された後、最高人民裁判所で死刑を宣告され、1947年4月16日、かつて所長を務めたアウシュヴィッツの地で絞首刑に処された。
ヘスは1947年2月に手記を書き残し、自分は第三帝国の巨大な虐殺機械の一つの歯車にされてしまったと記した。日本語ではナチ党副総統のルドルフ・ヘスと表記が似るが、二人は別人であり、血縁関係もない。
同じ年に亡くなった人物
- 安達二十三 (1947年没)
- マリアーノ・ベンリューレ (1947年没)
- ヨハンス・ブレンステッド (1947年没)
- ヒュー・ロフティング (1947年没)
- 谷寿夫 (1947年没)
同じ地域に関係する人物
- ラファエル・カリノフスキー (1907年没)
- ローマン・インガルデン (1970年没)
- ヴワディスワフ1世 (ポーランド王) (1333年没)
- Roger Verey (2000年没)
- ヨーゼフ・ビューラー (1948年没)