伝記
スタンリー・ボールドウィンは1867年、イングランドのウスターシャーで鋳鉄業者の一人息子として生まれた。ハーロー校とケンブリッジ大学トリニティ・カレッジで学び、1888年に父の会社に入った。会社は大企業ではなく、従業員は世紀初めには約150人、1914年には約500人だった。経営者と労働者が話す時間を設ける温情主義的な運営で、ボールドウィンも従業員を名前で覚えていたという。このやり方は後に保守党の議員たちにも向けられた。1900年には州議会議員となり、1906年の総選挙では庶民院議員選挙に敗れた。父が1908年に死去すると、父の議席を引き継ぐ形で無投票当選し、保守党議員として政界に入った。
第一次世界大戦中の1917年、財務大臣ボナー・ローの推挙を受けてロイド・ジョージ挙国一致内閣に入り、1921年までその職を務めた。同年には商務庁長官となり、実業界から人気を得た。大連立の継続には反対し、1922年の保守党議員総会で、連立が続けば伝統ある保守党が破壊されてしまうと演説した。保守党が独自の指導者と政策を持つ政党として選挙に臨むとの決議が可決され、ロイド・ジョージ内閣は総辞職した。ボナー・ローが首相となると、ボールドウィンは財務大臣に就いた。アメリカとの戦債交渉では、九億八千万ポンドを平均利子率三・三パーセントで六十二年かけて返済する取り決めをまとめた。1923年、病気で退任したボナー・ローの後任には、貴族院議員のカーゾン侯爵も候補に挙がったが、庶民院議員の支持を集めたボールドウィンに国王が組閣を命じ、保守党党首として首相となった。
失業対策として産業保護が必要だと考えたボールドウィンは、帝国特恵関税制度を掲げ、輸入品に関税を設け自治領に優遇を与える政策を訴えた。食料には関税をかけないと説明したが、1923年12月の総選挙では保護貿易による食料価格の上昇が争点となり、保守党は議席を大きく減らして過半数を失った。翌年、新議会で不信任案が可決され、第一期の内閣は終わった。労働党の政権が退いた後、1924年に再び首相となり、1929年まで第二次内閣を率いた。財務相チャーチルの主導で金本位制への復帰を行ったが、石炭産業に打撃を与え、賃金削減をめぐる対立から1926年のゼネストを招いた。政府はストライキの鎮圧にあたり、労働組合会議は全面的に譲歩した。外交ではロカルノ条約や不戦条約を結んで緊張緩和を図ったが、1929年の総選挙で労働党に敗れて下野した。
1931年、ボールドウィンはマクドナルド挙国一致内閣の枢密院議長として入閣し、同年の総選挙では挙国政府派の勝利に加わった。1935年にマクドナルドが退任すると首相となり、同年の総選挙後も多数派を保った。ドイツのラインラント進駐やスペイン内戦への軍事介入を避け、ナチス政権に対して宥和政策を進めた。1936年には国王エドワード八世に退位を求め、翌年、ネヴィル・チェンバレンに後を託して首相を退いた。退任直後にボールドウィン伯爵に叙され、貴族院議員となった。三度にわたって首相を務めたボールドウィンは、1947年12月14日に死去した。
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