伝記
ヤコブ・ファン・アルテフェルデは、中世フランドルの政治家で、百年戦争の初期にフランドル都市連合を率いた人物である。1290年ごろ、フランドル伯領の豊かな都市ヘント(ガン)に商人の家の子として生まれた。父の名はおそらくウィレムといい、兄弟のヤンは裕福な毛織物商で、14世紀前半の公の事柄で指導的な役割を果たした。ヤコブは毛織物で財をなしたとされ、伝承では醸造を営んだ。3年のあいだ表に出ず財産を築いたともいわれ、「醸造者」「賢人」などと呼ばれた。結婚は2度で、2度目の妻カタリナ・デ・コステルの家はヘントで大きな影響力を持っていた。
1336年、フランス王位を主張していたイングランド王エドワード3世は、フランスの支配に対する反乱を促してフィリップ6世を弱めようと、フランドルへのイングランド産羊毛の輸出を禁じた。イングランドの羊毛に頼るフランドルはたちまち危機に陥り、利益は減り、失業が増え、暴動が相次ぐようになった。フランス王の力でフランドル伯となったルイ・ド・ヌヴェールは親フランスの政策をとっていた。1338年1月3日、ヤコブはヘントの参審人たちから市の運営を任され、4月にはヘント、ブルッヘ、イーペルの大都市の会議をエークホウテ修道院で開いた。このときからフランドル伯領の政治を握ったとされる。ブラバント公領やホラント、エノーの諸都市とも結んで、エドワード3世とフランス王フィリップ6世の争いに対する中立を唱え、イングランドとの交易を取り戻そうとした。フランドル伯ルイは彼を支持する軍勢を抑える力がなく、1338年6月21日に三都市へ譲歩する条約に署名し、この三都市は「フランドルの三つの成員」と呼ばれるようになった。伯はのちフランスへ逃れ、ヤコブはその代わりにシモン・ファン・ハーレンを摂政に立てた。
しかし、フィリップ6世がフランドル伯の復帰を求めたため、中立は続かなかった。1339年12月、ヤコブはアントウェルペンでエドワード3世に会って協定を結んだ。フランドルの人々はエドワードをフランス王と認め、征服のための軍勢を出すことを約束し、エドワードは羊毛の集散地をアントウェルペンからブルッヘへ移すことと、リール、ドゥエー、オルシーの城主領をフランドルへ返すことに同意した。1340年、ヤコブはエドワードをヘントに招いてフランス王と宣言させた。このころヘント、ブルッヘ、イーペルの三都市はフランドル全体を事実上支配し、都市の政治勢力は頂点に達した。ヤコブは半ば独裁的な体制を築き、1345年までフランドルを率いた。
だが、1340年代の初めになっても、イングランド産羊毛が戻ったことは繁栄をもたらさず、ヤコブの権威への異議が強まった。教皇クレメンス6世は誓いを破ったフランドル人を破門した。ルイは反対派のなかに党派を作ってフランドルに足場を取り戻した。ヤコブはここでフランドル伯と手を切り、エドワード3世の息子、のちの黒太子エドワードにフランドル伯領を与えるよう勧めた。この方針転換はヘント市内でも反発を招き、1345年7月24日、ヤコブは暴動のなかで殺された。フランドルはエドワード3世から離れ、フランスにつくようになった。
息子のフィリップは、のちの1381年から1382年にフランドルの指導者となった。ヘント、ブルッヘ、イーペルの軍を率いて1382年にフランドル伯の軍をブルッヘ近郊で破ったが、その直後のローゼベーケの戦いでフランス王の軍と戦い、戦死した。1863年9月13日には、生まれ故郷ヘントの金曜市場に彼の像が建てられ、ベルギー王レオポルド1世が除幕した。
同じ年に亡くなった人物
- リチャード・バリー (1345年)
- ギヨーム2世 (エノー伯) (1345年没)
- Al-Salih Ismail (1345年没)
- アンドレア・ドゥンゲリア (1345年没)
- Peregrine Laziosi (1345年)
同じ地域に関係する人物
- リタ・ゴア (2012年没)
- アルヌール2世 (フランドル伯) (987年没)
- ウィルフリート・マルテンス (2013年没)
- エミール・クラウス (1924年没)
- Louis Paul Boon (1979年没)