HISTORICAL PERSON · 1345年没

ジャン・ド・モンフォール

ブルターニュ公位を巡りシャルル・ド・ブロワと争い、20年に及ぶブルターニュ継承戦争を引き起こした貴族。

生涯
1345年没
死亡地
フランス共和国(モルビアン県 / エンヌボン)
出生地
フランス共和国(エンヌボン)
出典
世界地図
フランス共和国(モルビアン県)

伝記

ジャン・ド・モンフォールは、ブルターニュ公国の貴族で、ブルターニュ継承戦争の火種となった人物である。1294年とも1295年ともいわれる年に、ブルターニュ公アルテュール2世と2度目の妃ヨランド・ド・ドルーの子として生まれた。1322年に母からモンフォール・ラモーリー伯の位を継ぎ、1329年にシャルトルで、ヌヴェール伯ルイ1世の娘ジャンヌ・ド・フランドルと結婚した。2人のあいだには、のちのブルターニュ公ジャン4世となる1339年生まれの息子と、1341年生まれの娘ジャンヌが生まれた。

1341年4月30日、異母兄のブルターニュ公ジャン3世が男子のないまま亡くなった。後継を争ったのは、異母弟のジャン・ド・モンフォールと、ジャン3世の姪ジャンヌ・ド・パンティエーヴルおよびその夫シャルル・ド・ブロワである。シャルルはフランス王フィリップ6世の甥で、王が甥を支持するのは当然だった。ブルターニュ公位は男子の長子相続を原則としつつ、男系がいなくなれば最も近い女系が継ぎ、その夫が公となる慣習だった。ジャンは、異母兄弟でも姪より近い相続人であり、フランス王国のサリカ法的な継承に従うべきだと主張した。ブルターニュは1297年から王国の公爵領兼同輩衆の領地だったからである。女系による王位継承を退けてフィリップ6世が即位した経緯を考えれば、王がジャンヌを支持するのは皮肉でもあった。

葬儀のあと、ジャンはゲランドの所領に戻った。伝承では妻に促されて、少数の軍勢とナントへ向かい、住民に迎えられて忠誠の誓いを受けた。さらにリモージュに隠されていたジャン3世の財宝を手に入れ、1341年5月に町の代表や下級貴族の集会で公と認められたが、有力な諸侯からは遠ざけられ、レオン伯エルヴェ7世だけが味方についた。財宝で傭兵を雇い、6月から7月にかけてブルターニュを巡って、レンヌ、ヴァンヌ、オーレー、エンヌボン、カンペール、ブレスト、サン・ブリユー、ディナンなどを従えた。イングランドへ渡ってウィンザーでエドワード3世に会い、軍事援助の約束とリッチモンド領の授与を受けたともされる。

しかし、シャルル・ド・ブロワがフィリップ6世に訴え、王は1341年9月にコンフランでの貴族会議にジャンを召喚した。この裁定でブルターニュ公位はシャルルに与えられ、王はジャンから、リモージュ子爵領とフランス国内のモンフォール・ラモーリー伯領を没収した。10月、シャルルはノルマンディー公ジャン(のちのフランス王ジャン2世)とともにブルターニュへ侵攻し、3週間の包囲戦ののち、11月21日にナントなど多くの砦を落とした。ジャンは捕らえられ、パリのルーヴル宮の牢につながれた。夫の不在のあいだは、妻ジャンヌ・ド・フランドルが指揮をとって戦いを続けた。この戦いは、ジャンヌ・ド・パンティエーヴルと、ジャンヌ・ド・フランドルの対立から、「2人のジャンヌの戦争」とも呼ばれる。

1343年1月、教皇クレメンス6世の仲介による休戦で、ジャンは自由になったともいうが、実際には釈放ではなく、1345年3月に逃亡したとされる。その後はイングランド王エドワード3世が送った増援とともに戦ったが、カンペールの包囲戦の最中に病を得て、1345年9月26日にエンヌボンで亡くなった。ジャンは公位を確かなものにできなかったが、同名の息子が1365年に戦争を終わらせ、ブルターニュ公ジャン4世となった。

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