HISTORICAL PERSON · 1345年没

ヘンリー (第3代ランカスター伯)

第3代ランカスター伯。兄の処刑で没収された爵位・所領を回復し、摂政イザベラらの宮廷派と対立した。

生涯
1345年没
死亡地
イギリス連邦(レスター / レスター城)
出生地
—
出典
世界地図
イギリス連邦(レスター)

伝記

ヘンリーは、1281年頃に生まれたイングランドの貴族で、のちに第3代ランカスター伯となった人物である。父は国王ヘンリー3世の次男である初代ランカスター伯エドマンド、母はフランス王ルイ9世の弟アルトワ伯ロベール1世の娘ブランシュで、ヘンリーはその次男にあたる。兄に、父の爵位をすべて継いだトマスがいる。父がギュイエンヌでフランス軍と戦う遠征の途中、バイヨンヌで死去すると、ヘンリーはモンマス、キッドウェリーなどの城と、ウェールズのセヴァーン川以東の若干の土地を受け継いだ。1297年には、ウォリック伯の孫にあたる女子相続人モード・チャワースと結婚し、多くの所領を得た。

ヘンリーは叔父にあたる国王エドワード1世に従い、フランドルへの遠征に加わった。翌年イングランドに戻ると、国王や兄とともにスコットランド遠征に参加し、ファルカークの戦いにも出陣したと伝わる。1300年のカーラヴェロック城の攻囲にも加わり、その働きの報いとして議会に召され、ランカスター男爵に叙された。1301年には、スコットランドに対する国王の宗主権を擁護してローマ教皇に宛てた「諸侯の書簡」に、ほかの貴族たちとともに名を連ねた。

1307年にエドワード1世が没し、息子のエドワード2世が即位した。新王が妻に迎えたのは、フランス王フィリップ4世の娘イザベラで、ヘンリーの姪にあたる。戴冠式でヘンリーは、鳩の乗った王の笏を捧げ持った。その後は領地のあるウェールズに戻って所領の管理にあたり、宮廷の争いには加わらなかった。兄トマスは王の寵臣ピアーズ・ギャヴストンとたびたび衝突し、1312年にその処刑を命じ、1314年にバノックバーンで王が敗れると国王評議会の実権を握ったが、ヘンリーはそれとは対照的な立場にあった。ウェールズでは、ルウェリン・ブレンの反乱に対処し、ヘレフォード伯やロジャー・モーティマーの助けを得て反乱軍を破り、降伏させた。

1322年3月16日、兄トマスはバラブリッジの戦いに敗れて処刑され、爵位と所領は没収された。それでも1324年には、ヘンリーに第3代レスター伯位の継承が認められた。1326年にヘンリーは、王妃イザベラとモーティマーが国王の専制に対して起こした反乱に加わり、まもなくエドワード2世を捕らえて、廃位されるまで幽閉したという。エドワード3世が即位した1327年には、議会が彼を国王の警護役に指名し、ランカスター伯位の継承も認められた。

しかし、当時の実権は母后イザベラとその愛人モーティマーが握っており、モーティマーの急速な昇進に不満を抱いたヘンリーは、宮廷派と対立して宮廷から退いた。1328年には摂政たちの打倒を試みたが、この反乱は鎮圧された。1329年までには、兄の所領をほぼ取り戻している。1330年、エドワード3世がモーティマーを失脚させたとき、ヘンリーは決定的な助力をした。その後は領地に引きこもり、1345年9月22日にレスターで死去した。妻モードとのあいだには1男6女があり、長男ヘンリー・オブ・グロスモントは第4代ランカスター伯を継ぎ、のちに初代ランカスター公に叙された。六女は第3代パーシー男爵に嫁ぎ、初代ノーサンバランド伯ヘンリー・パーシーの母となった。

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