伝記
カザンは、チャガタイ・ハン国の第20代ハンで、チャガタイ・ウルスの第26代当主にあたる人物である。生年は分かっておらず、没年は1346年とされる。チャガタイの孫ブリから数えて5世の子孫にあたり、ブリの兄弟イェスン・ドゥアの子から続くドゥア一門とは別の系統に属する。娘のサライ・ムルク・ハーヌムは、のちにティムールの妃となった。
父のヤサウルは、チャガタイ・ハン国からイルハン朝に亡命したのち、1320年に双方の国から挟み撃ちにされて殺された。このとき、カザンは兄弟のジュキや親族とともに、ケベクの軍に捕らえられたと、ティムール朝の歴史家ハーフィズ・アブルーが記している。即位するまでのカザンの動きは、この記述のほかには明らかになっていない。在位は1341年か42年、あるいは1343年から1346年までとされる。ティムール朝の時代に編まれた歴史書は、即位をヒジュラ暦733年(1332年か33年)とするが、その即位年と在位期間は編者の誤認と考えられている。
カザンは、先代のケベクが宮殿を建てたカルシの西に、「鎖の宮殿」という名の宮殿を築いた。マー・ワラー・アンナフル地方に強力な中央政権をつくろうとしたが、失敗に終わった。ティムール朝期の史料は彼を暴君として描き、宮廷に赴く臣下は装束の下に経帷子を着けて妻子に別れを告げ、近衛兵さえも恐れていたと伝える。カザンは、自分をハンに擁立したトルコ系の貴族を弾圧したため、反対派の不満が高まった。実権はアミールのカザガンが握っていたともいわれ、1346年にカザガンは諸部族を率いて反乱を起こした。カザンはテルメズとカルシのあいだにある鉄門関の北方での戦いに勝ったが、勝利を追撃せず、カルシで冬営した。そこをカザガンに急襲されて戦死した。
カザンの死は、マー・ワラー・アンナフルにおけるチャガタイ家の実質的な権力の終わりを意味した。以後はアミールたちが実権を握り、ハンは名ばかりの存在となった。次のハンのダーニシュマンドジュは、カザガンの傀儡であった。
イブン・バットゥータの『大旅行記』は、インド滞在中に得た情報として、「ハリール」というヤサウルの長子がブザンから政権を奪う経緯を記している。ハリールに言及する歴史家はバットゥータだけで、その実在と実像には意見が分かれる。バルトリドは、バットゥータの記述に疑問を示しつつも、1342年と1344年にハリールの名を刻んだ貨幣が鋳造されたことから、ハリールとカザンは別人だと推定した。J.オーバンは、ハリールに触れる史料が旅行記だけであること、ナクシュバンディー教団で活躍した同名の修行僧と似た行動が多いこと、バットゥータがインド滞在中に間接的にしか情報を得ていないことを指摘している。トルコの歴史学者トガンは、カザンと、バットゥータのいうハリールと、ナクシュバンディー教団の指導者バハーアッディーン・ナクシュバンドが若いころに師事したといわれるスーフィーのハリールを、同一人物と推定した。川本正知も、貨幣に刻まれたマークの共通点と発行年から、カザンとハリールを同一人物と見て、1344年か45年までカザンがこの名の貨幣を鋳造させたと推測している。
同じ年に亡くなった人物
- Shah Jalal (1346年)
- カトリーヌ・ド・ヴァロワ=クルトネー (1346年没)
- Helion de Villeneuve (1346年)
- ヨハン・フォン・ルクセンブルク (1346年没)
- ラウル (ロレーヌ公) (1346年没)
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