HISTORICAL PERSON · 1348年没

花園天皇

第95代天皇。12歳で即位し、在位中は父の伏見上皇、後に兄の後伏見上皇が院政を敷いた。譲位後に『誡太子書』を著し、京極派の歌人として『風雅和歌集』を監修した。禅に傾倒して妙心寺を開基した。

生涯
1348年没
死亡地
日本(京都府 / 妙心寺)
出生地
—
出典
世界地図
日本(京都府)

伝記

花園天皇は、永仁5年(1297年)7月25日に生まれた日本の第95代天皇である。諱は富仁といい、伏見天皇の第四皇子で、母は左大臣洞院実雄の娘の洞院季子(顕親門院)であった。延慶元年(1308年)、大覚寺統の先帝後二条天皇が急死したため、12歳で践祚し、同年11月に即位した。在位の前半は父の伏見上皇が、後半は兄の後伏見上皇が院政を布いた。

譲位の交渉が大詰めを迎えていた正和6年(1317年)3月末、天皇は日記『花園天皇宸記』に複雑な心境を記した。在位が10年に及んだことについて、後伏見院や後二条院でさえ10年に満たなかったのだから過分なことだと述べる一方、完成間近の新造内裏への遷幸を見ずに譲位することを第一の遺恨と嘆いている。また、関東や世間の人心が皇太子の尊治親王に帰している状況を天運と受け止め、皇太子は和漢の才を兼ね、年齢も父のようであるとその資質を認めつつ、自らの不徳を記した。文保2年(1318年)2月、天皇は大覚寺統の尊治親王、すなわち後醍醐天皇に譲位した。

譲位後は、皇太子となった甥の量仁親王、のちの光厳天皇の養育にあたった。元応元年(1319年)閏7月4日の日記には、政道の学問に7、8年励み、多くの者と談じても得心がいかなかったが、日野資朝と談じて初めて意を知る者に出会えたと記している。この月には持明院殿で『論語』の談義が行われ、日野資朝や菅原公時らの学者官僚に混じって玄恵ら宋学に通じた僧侶も加わり、天皇は玄恵の説くところを「誠に道に達するか」と讃えた。元亨元年(1321年)4月20日には『孟子』を読んで「情感の至り、説き尽くすべからず」「豈に悦ばざんや」と述べ、元亨2年(1322年)3月27日には自ら『論語』の談義を行って、朱熹の『論語精義』などを用いた。こうして天皇は、学問のなかでも宋学に深く通じた。元徳2年(1330年)2月には、親王を訓戒するために『誡太子書』を著し、やがて訪れる動乱の時代に備えて勉学が必要なことを説いた。紂王の例を持ち出して帝徳の涵養に努めるべきことも述べている。同じころに親王のために著したとみられる『学道之御記』は、学問の目的を、ただ文字を識り博学になることではなく、本性に達し、道義をおさめ、礼義を知り、状況の変化をわきまえ、過去を知って未来に活用することだと説く。

天皇は禅宗の信仰に傾倒し、建武2年(1335年)11月、円観について出家して、法名を遍行と称した。宗峰妙超と関山慧玄を師とし、暦応5年(1342年)1月には仁和寺の花園御所を寺に改めて妙心寺を開基した。貞和3年(1347年)には関山慧玄にあてた置文を記し、これは妙心寺に伝わる。南北朝時代には北朝側につき、光厳上皇率いる北朝を支えて、上皇が自ら撰した『風雅和歌集』では真名と仮名の両方の序文を執筆した。

貞和4年(1348年)11月、光厳院政の絶頂期のさなかに、花園萩原殿で崩御した。宝算52。知らせを聞いた光厳上皇はすぐに萩原殿へ駆けつけ、特例で5か月間の心喪に服してその死を深く悼んだという。埋葬は崩御の2日後であった。生前は仙洞御所の萩原殿にちなんで「萩原法皇」と呼ばれ、追号の花園院は遺詔による。歌道・学問・書道に優れ、和歌では京極派の主要人物の一人であった。信心深く、読経や念仏を欠かさなかったという。宸筆の原本の『花園天皇宸記』は今日まで残る。

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