伝記
マーゾ・ディ・バンコは、14世紀にフィレンツェで活動したイタリアの画家である。ルネサンス初期に数えられ、ジョットの弟子として、その影響を強く受けた。タッデオ・ガッディとともに、ジョットの弟子のなかでもとりわけ活動的で名の知られた一人とされ、ジョットが開いた立体的で劇的な写実を押し進めた。生年は分かっておらず、ジョッティーノの名を添えて呼ばれることもある。生涯についてわかっていることは少なく、署名や年代の入った作品も残っていない。
最も古い文書からは、1328年より前から医師・薬種商組合の一員だったとみられる。この組合には、14世紀の初めから画家も受け入れられていた。修業はジョットの工房で積んだとされ、ジョットがフィレンツェのサンタ・クローチェ聖堂で行った仕事にその存在が確かめられる。ナポリのカステルヌオーヴォにあるサンタ・バルバラ礼拝堂の壁画(1329〜1332年)にも、助手たちとともに加わったと伝えられる。
主要な作品は、1340年ごろに描かれたとみられる、サンタ・クローチェ聖堂のバルディ・ディ・ヴェルニオ家の礼拝堂の壁画である。聖シルウェステルの生涯を主題とし、竜を退けてその犠牲者をよみがえらせる場面などが描かれた。同じ礼拝堂には最後の審判と埋葬の場面もある。個人が死後に受ける審判を描いた壁画では、銀行家として知られたバルディ家の人々がキリストの前で自分たちの魂の行く末を訴える姿が表された。聖堂の正面内側の半円壁にある聖母戴冠も、この画家の作とされる。ほかにも、サント・スピリト聖堂から伝わる五連の多翼祭壇画(1340年ごろ)などが彼の作に帰されている。
1341年、マーゾは有力なバルディ家との訴訟にかかわり、そのために財産の目録が作られた。差し押さえの品には、彼自身の絵である「聖母子」「洗礼者聖ヨハネ」「聖フランチェスコ」が含まれていた。1346年には再び組合の名簿に名がみえ、1350年には聖ルカ画家同信会の名簿に最後に名が記された。それでも、1348年にイタリアを襲った黒死病で亡くなったと考える研究者もいる。
死後、1392年にフィレンツェのサン・ピエル・マッジョーレ聖堂で行われた壁画修復の記録は、マーゾを「偉大な師」と呼んでいる。15世紀のロレンツォ・ギベルティも、彼を並外れた才能の人と記し、サンタ・クローチェ聖堂の壁画を主要な作品として挙げたうえ、多くの弟子を残した彫刻家でもあったと伝えた。16世紀のヴァザーリはマーゾの伝記を残さず、ジョットの弟子の一人に、ジョッティーノと呼ばれるマーゾの名を挙げるにとどめた。ギベルティの挙げたサンタ・クローチェ聖堂の壁画をステファノという画家の作としたため、マーゾ、ステファノ、ジョッティーノの三つの名が混同され、長く研究者を悩ませた。1929年にリチャード・オフナーがマーゾ・ディ・バンコの像と作風を定め、1951年にはロベルト・ロンギがステファノをプッチョ・カパンナと同定して、混乱は解けた。ロンギは彼の作品の繊細な色彩の輝きを評し、「ジョットの時代のピエロ・デッラ・フランチェスカ」と呼んだ。一方、カルロ・ヴォルペは、ほかのジョットの弟子の影に隠れた存在とみており、その位置づけをめぐる議論はまだ終わっていない。
同じ年に亡くなった人物
- ジョヴァンニ・ヴィッラーニ (1348年没)
- ナリマンタス (1348年没)
- Laura de Noves (1348年)
- ヨハネス14世 (1348年)
- レオノール・デ・ポルトゥガル (アラゴン王妃) (1348年没)
同じ地域に関係する人物
- シモネッタ・ヴェスプッチ (1476年没)
- ジュゼッペ・アッバーティ (1868年没)
- カミッロ・フィリッポ・ボルゲーゼ (1832年没)
- バッチョ・バンディネッリ (1560年没)
- ベルナルド・ロッセリーノ (1464年没)