伝記
エドガー・フォン・ヴァールは、1867年8月23日に生まれたバルト・ドイツ人の教育者・言語学者で、国際補助語インターリングの創案者として知られる。この言語は1922年に初めて発表され、彼の生涯を通じてオクツィデンタルの名で呼ばれていた。生まれはウクライナのオルヴィオポリとされるが、近郊のボゴポリとする資料もあり、正確な出生地には食い違いがある。エストニアに領地を持つヴァール家の出で、曽祖父カール・グスタフは二度の結婚で十四人の子をもうけ、祖父アレクセイは1837年にパイヌルメの領地を購入してその系統の基礎を築いた。父オスカーは鉄道技師であり、1866年にタリンで結婚したのち、オデッサからハリコフへ至る鉄道の仕事のためウクライナへ移った。一家は1869年までにクレメンチュクへ移り、のちタリンを経て、1876年にはサンクトペテルブルクに落ち着いた。
同年に第3ギムナジウムへ入り、1886年に卒業した。その後は大学の物理数学部とアカデミーで建築を、次いで絵画を学び、在学中にはバルト系ドイツ人の学生団体に加わって会計係も務めた。1891年に大学を卒業し、1893年には美術アカデミー付属の学校で図画教師の資格を得ている。幼いころからドイツ語、ロシア語、エストニア語、フランス語に親しみ、中等学校でラテン語と古代ギリシャ語、大学でスペイン語を学んだほか、ほかの九つの言語でも意思を通じさせられたという。本人の言葉によれば、子どものころから新しい言語をつくりたいと望んでおり、遊びのために文法をギリシャ語とエストニア語に基づく自分だけの「インディアン語」を考案したという。
1892年にロシア海軍へ志願し、勤務中にはカリブ海の島々やアメリカ合衆国などを広く訪れた。1894年の初めに士官候補生の階級を得て退役し、同年にタリンへ移って、以後ほとんどをそこで過ごした。市内のいくつもの学校で教え、第一次世界大戦の前とその間にはタリンの市会議員も務めた。1904年夏に再び召集されてバルト艦隊に勤務し、1905年10月まで在籍したが、日露戦争の戦闘には加わっていない。
言語への関心は学生時代に始まり、まずヴォラピュークを支持し、のちにエスペラントに加わった最初期のエスペランティストの一人となった。しかし1890年代の終わりごろから、理想的な新しい国際語を求めるようになる。論文を発表し、1906年には改良した中立語を論じ、1909年には国際補助語の構想を示した。その模索は1922年にオクツィデンタルの発表へ結実し、普及のための雑誌『コスモグロット』も刊行された。1925年には八つの言語を併記した語根辞典を、1928年には文法や語形成、比較用の例文を収めた解説書を出し、1935年にはオットー・イェスペルセンと論争を交わした。1913年にはタリンで、帝室エストランド海上ヨットクラブの歴史概観も著している。言語学は職業ではなく趣味であり、専門的には学んでいなかったともされる。
1939年、ドイツに移住する機会がありながらエストニアに残る道を選んだ。ドイツによる占領下ではセーヴァルトの精神病院に収容され、1945年には入院中に強制移送を辛くも免れた。1948年3月9日、同じ病院で亡くなった。翌1949年、彼の創った言語はインターリングと改称され、今日ではその名で広く知られている。
同じ年に亡くなった人物
- Avedis Aharonyan (1948年没)
- 大谷光瑞 (1948年没)
- ソロモン・ミホエルス (1948年没)
- ディーター・ヴィスリツェニー (1948年没)
- エドヴァルド・ベネシュ (1948年没)
同じ地域に関係する人物
- ニコライ・トリイク (1940年没)
- Kalju Lepik (1999年没)
- Juhan Kikas (1944年没)
- Johannes Kabin (1999年没)
- Jaak Joala (2014年没)