伝記
アンドレイ・アレクサンドロヴィチ・ジダーノフは、1896年2月26日(ユリウス暦では2月14日)、ロシア帝国領ウクライナのマリウポリに生まれたソ連の政治家である。父アレクサンドル・アレクセーヴィチは学校の視学官で、母方の祖父はモスクワ神学アカデミーの学長を務めた人物とされる。モスクワ商業学院で学んだのち、1914年に陸軍に召集され、士官学校を卒業して予備役に就いた。1915年にボリシェヴィキに入党し、ロシア革命に参加した。内戦では赤軍の政治委員を務め、1923年にトヴェリ県ソビエトの議長に選ばれ、1924年から1934年までニジニ・ノヴゴロドの州党委員会第一書記を務めた。
出世の転機は1934年の第17回党大会で、中央委員会書記に選ばれてモスクワに移った。同年8月の第一回ソ連作家同盟大会では開会の演説を行い、芸術における社会主義リアリズムを強く提唱した。同年12月にセルゲイ・キーロフがレオニード・ニコラエフに暗殺されると、その後任としてレニングラード党委員会の書記に就任した。翌1935年にはレニングラードの内務人民委員部の長と組み、旧貴族や中産階級だった人々を市から追放したと伝えられる。大粛清の時期には、党を政治教育と思想宣伝の機関にすべきだと主張し、処刑者名簿の承認にも関わった。1939年には政治局員に昇進し、スターリン体制の一翼を担う存在となった。
独ソ戦では、ドイツ軍に包囲されたレニングラードの防衛を指揮した。包囲が破られた後の1945年1月、モスクワでの中央委員の仕事に専念するためにレニングラード党書記を解任されたが、スターリンに次ぐ権力を握った。戦後はスターリン主義に基づく文化政策の中心的な指導者となり、1946年以降、詩人アンナ・アフマートワを手始めに、作曲家ドミートリー・ショスタコーヴィチらを含む文化人や知識人への抑圧を主導した。この動きはジダーノフ批判、あるいはジダーノフ主義と呼ばれる。また東西の緊張が高まるなか、冷戦期のイデオローグの一人として、1947年にヨーロッパ各国の共産党の調整を目的にコミンフォルムを組織した。ところが、当初加盟していたユーゴスラビアはソ連の支配に反発した。ジダーノフは大会で演説してユーゴスラビアを「テロリスト国家」と激しく非難し、結果としてユーゴスラビアは除名された。
スターリンの有力な後継者の一人と見られていたが、体調を崩しており、ユーゴスラビアとの対立の影響で立場を弱めたともいわれる。1948年8月31日、モスクワで急死した。死因は心不全とされるが、スターリンの関与を疑う説もあり、定かではない。死の直後に、政敵のゲオルギー・マレンコフとラヴレンチー・ベリヤによってレニングラード事件が「発覚」し、ニコライ・ヴォズネセンスキーら、ジダーノフの傘下やレニングラードに基盤を置く党幹部は、ことごとく粛清された。
息子のユーリーは独ソ戦に従軍したのち、1948年にモスクワ大学で博士号を取得した。1949年にはスターリンの娘スヴェトラーナと結婚したが、まもなく離婚した。のちに有機化学の研究でソ連科学アカデミー会員となり、ソ連崩壊後の2006年に没した。生誕地マリウポリは、彼の名を冠した都市名で呼ばれたが、1989年に元の名称に戻った。
同じ年に亡くなった人物
- Henrik Lund (1948年没)
- ダーシー・トムソン (1948年没)
- エドガー・レナード (1948年没)
- エーゴン・キッシュ (1948年没)
- キャロル・ランディス (1948年没)
同じ地域に関係する人物
- アレクセイ・カプレル (1979年没)
- ウラジーミル・オドエフスキー (1869年没)
- ヴァシーリー3世 (1533年没)
- ドミトリー・シェピーロフ (1995年没)
- クリメント・ヴォロシーロフ (1969年没)