伝記
東條英機は、1884年7月30日、東京府麹町区に生まれた陸軍軍人・政治家である。父の東條英教は陸軍教導団の出身で、下士官から将校に累進し、陸軍大学校の一期生を首席で卒業した俊才だったが、陸軍中将で予備役となった。父は、大将になれなかったのは長州閥に睨まれたためだと終生考えていたという。英機は三男だったが、長男と次男がすでに亡くなっていたため、実質的に家督を継ぐ長男として扱われた。幼年学校を経て陸軍士官学校に進み、1905年に17期生として卒業して歩兵少尉に任官した。1909年に伊藤かつ子と結婚し、1910年と1911年に陸軍大学校を受験して失敗したが、1912年に入学し、1915年に11番目の成績で卒業した。陸軍の諸法規を記した『陸軍成規類聚』をすべて暗記したという逸話があり、座右の銘は「努力即権威」だった。
スイスとドイツに駐在した頃、永田鉄山や小畑敏四郎、岡村寧次らと親しくなり、1921年にバーデン=バーデンで永田らが結んだ密約に参加した。帰国後は陸軍大学校の教官などを務め、木曜会や、のちに二葉会と合流して結成された一夕会で、板垣征四郎や石原莞爾らと並ぶ中心人物となり、陸軍の人事刷新と満蒙問題の解決を計画したという。1929年に歩兵第1連隊長となると、将校全員の身上調書を暗記して着任し、兵卒の家庭環境の把握や食事にも気を配って「人情連隊長」と呼ばれた。その後、1933年に少将、1935年に関東憲兵隊司令官となり、二・二六事件では関東軍内の混乱を収め、皇道派関係者の検挙に功があった。1937年に関東軍参謀長となり、日中戦争が始まると、自ら「東條兵団」と命名した察哈爾派遣兵団を率いて作戦に参加した。参謀長と部隊指揮官を兼ねるのは陸軍の伝統に反していたが、作戦は大きな成功を収めたとされる。一方で補給が間に合わず飢えに苦しむ連隊が続出し、陽高では住民や捕虜が大量に殺害される事件が起きたとされるが、犠牲者数ははっきりしない。
1938年には陸軍次官となり、「北方にはソ連を、南方には英米を相手とする戦争を決意し準備すべきだ」と発言して報じられた。板垣陸相の下で参謀次長の多田駿らと対立し、板垣から退職を迫られたが、「多田次長の転出なくば退職願は出さない」と抵抗した。結果として多田は転出となり、同時に東條も新設の陸軍航空総監に補された。1940年7月から第2次・第3次近衛内閣で陸軍大臣を務めた。近衛の日記によると、支那派遣軍総司令部がアメリカと妥協して事変を解決するよう求めた際、東條は「第一線の指揮官は前方を向いていればよい」と答えたという。1941年8月に総力戦研究所から日米戦争は日本の必敗との報告を受けたが、10月の閣議では、近衛首相が駐兵問題で譲歩する余地を示したのに対し、撤兵は心臓にあたると激しく反論したと伝えられる。近衛との対立は一段と深まった。
1941年10月18日、現役軍人のまま第40代内閣総理大臣に就任した。在任中に太平洋戦争が始まり、権力強化を目指して複数の大臣を兼ね、1944年2月には慣例を破って陸軍大臣と参謀総長も兼任した。内閣は同年7月18日に総辞職した。日本の降伏後、拳銃で自殺を図ったが、連合国軍の治療で一命を取り留めた。東京裁判では開戦の罪と殺人の罪で起訴され、1948年11月12日に死刑判決を受け、12月23日に巣鴨拘置所で処刑された。
同じ年に亡くなった人物
- 菊池寛 (1948年没)
- ヤヒヤー・ムハンマド・ハミードゥッディーン (1948年没)
- ジョゼ・ヴィアナ・ダ・モッタ (1948年没)
- ゼルダ・セイヤー (1948年没)
- トニー・ガルニエ (1948年没)