HISTORICAL PERSON · 1948年没

ヴァルター・フォン・ブラウヒッチュ

ドイツの陸軍元帥。1938年から陸軍総司令官を務め、フランス戦での活躍で元帥に昇進したが、モスクワ攻撃の失敗をきっかけにヒトラーから更迭された。

生涯
1948年没
死亡地
ドイツ連邦共和国(ハンブルク)
出生地
ドイツ連邦共和国(ベルリン)
出典
世界地図
ドイツ連邦共和国(ハンブルク)

伝記

ヴァルター・フォン・ブラウヒッチュは、1881年10月4日にベルリンで生まれたドイツの陸軍軍人である。シレジア貴族の家に生まれ、父はプロイセン王国の騎兵大将ベルンハルト・フォン・ブラウヒッチュで、代々軍人を出す家系だった。十代のころは政治や芸術に関心を寄せ、父は士官学校ではなくベルリンのギムナジウムに進ませた。1895年にポツダムの陸軍幼年学校へ入り、のちにプロイセンの士官学校へ移って、最終学年では優秀な成績を収め、兄と同じく皇后の給仕に選ばれた。1900年にエリザベート妃近衛擲弾兵第3連隊へ少尉として入営し、病のため歩兵を離れて近衛野砲兵第3連隊に移った。砲兵学校で学び、シュパンダウの銃器工場の監督などを経て、1913年に正式に参謀本部へ転じて大尉に昇進した。

第一次世界大戦では軍団や師団の参謀を歴任し、ヴェルダンの戦いやアルゴンヌの森の戦いに加わった。一級鉄十字章とホーエンツォレルン家勲章を受け、少佐で終戦を迎えている。ヴェルサイユ条約でドイツ軍が縮小されたのちもヴァイマル共和国の国防軍に採用されたが、砲術の知識を生かす機会には恵まれなかった。1920年代には国防省の砲兵科に勤務し、歩兵との協力を重んじる彼の案が採用された。その後ミュンスターの第6軍管区参謀長などを経て、1929年に国防省兵務局教育部長となり、1931年に少将、翌年には砲兵総監に任じられた。

1933年のナチス政権成立後は、東プロイセンの軍管区司令官などを務め、1935年に第1軍団司令官、1936年に砲兵大将に昇進した。東プロイセンでは大管区指導者エーリヒ・コッホと衝突し、親衛隊が陸軍部隊を置き換える計画をめぐってヒムラーとも論争した。1938年にブロンベルク罷免事件でフリッチュが陸軍総司令官を罷免されると、ヒトラーは2月4日に彼を上級大将に昇進させ、第2代陸軍総司令官に任命した。再軍備政策を歓迎し、オーストリア併合やチェコスロバキアへの介入には反対した一方、ヒトラーの戦争計画に抵抗はしなかった。この時期、妻との離婚と再婚を勧めたヒトラーから8万ライヒスマルクを借り、金銭面で頼るようになったという。1939年4月にはカイテルとともに黄金ナチ党員バッジを授与されている。

第二次世界大戦の初期にはポーランド、フランス、バルカン半島などでの勝利を指揮し、フランスでの勝利後に陸軍元帥となった。ポーランド人に対する厳しい措置を支持したとされ、1941年のソ連侵攻の際には、軍に対し、人種差別的なナチス政策への批判をやめるよう命じた。しかしモスクワ攻略に失敗し、退却を許さないヒトラーと対立して、12月に解任された。この年の11月には心臓発作も起こしている。ヒトラーは後任に自ら就き、彼を「役立たずの臆病者」と評した。以後は軍務に就かず、ボヘミアの狩場に隠棲した。1945年8月に逮捕され、バルバロッサ作戦の指揮に関する戦争犯罪で裁かれる予定だったが、1948年10月18日にハンブルクのイギリス軍の病院で、気管支肺炎のため六十七歳で死去した。

なお、1940年12月には山下奉文を団長とする日本陸軍の訪独団と会見し、「ブラウヒッチュ元帥閣下」と鞘書きされた日本刀を贈られ、1942年9月には旭日大綬章を受けている。私生活では、二十九歳のころに荘園主の娘と結婚して一男一女をもうけたが、1938年に離婚して、同じ年に行政裁判所長の娘と再婚した。歴史家クラウスニックは、彼を職務の伝統に従った優れた専門家としつつ、ヒトラーに対処する人格の強さには欠けていたと評している。

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