伝記
ニコライ・アレクサンドロヴィチ・ベルジャーエフは、1874年3月18日(ユリウス暦では3月6日)、ウクライナのキエフ県で軍人貴族の家に生まれたロシアの哲学者である。母方の祖母がフランス人だったため、家庭ではフランス語が話されていた。1894年にキエフ大学へ入学すると、マルクスの影響を受けて革命思想に傾き、やがて革命分子と見なされた。1900年にはロシア北方のヴォログダへ三年間の流刑に処された。
1903年に釈放されるとドイツに遊び、翌1904年にはペテルブルクで雑誌『生の問題』の発刊者の一人となった。この頃、もとのマルクス主義からキリスト教へ回心したとされる。1909年には友人たちと論文集『道標』を刊行した。1911年にはイタリア滞在中に『創造の意味』を書き、1916年にモスクワで出版している。ロシア革命が起こると、論文でボリシェヴィキを批判するなど精神的な抵抗を続けた。1919年にはモスクワで「精神文化のための自由アカデミー」を開き、そこでの講義ノートがのちに『歴史の意味』と『ドストエフスキーの世界観』の土台となり、海外追放後に刊行された。1920年にはモスクワ大学に哲学と歴史学の教授として招かれている。
1922年、二度にわたって捕らえられたのち、共産主義への精神的な反対者として国外へ追放された。ベルリンに滞在して宗教哲学のアカデミーを開き、1923年に出した『歴史の意味』は1925年にドイツ語訳が出て、大きな反響を呼んだ。1924年にはパリに移り、近郊のクラマールで文筆活動を続け、その著作は各国語に翻訳された。1948年3月23日に没した。
思想の面では、かつて信じた無神論的なマルクス主義と共産主義の矛盾や弱点を強く批判し、共産主義を宗教になぞらえて論じたことで知られる。指導者を教皇のように神格化し、その著作を聖典のように絶対視し、批判を封じる点を、宗教的な組織との共通点として挙げたという。共産主義は二十世紀の邪教だとする見方を示し、その理論がユダヤ教の千年王国説、キリスト教の終末の救世主思想、白人至上主義の選民思想という三つの教義を融合させたものだと指摘したとされる。歴史哲学では、人間は歴史の中に生きると同時に歴史もまた人間の中に宿り、一人ひとりが世界全体と過去の偉大な時代を映すミクロコスモスだと説いた。過去・現在・未来を切り離す歴史観を退け、民族の記憶と象徴的な伝統の中に開かれる内的な生命が歴史に意味を与えると考えた。
進歩主義にも批判的で、進歩の理論は過去と現在を犠牲にして未来を神格化し、後の世代が先の世代を永遠に抹殺することだとして、「進歩の宗教は死の宗教」と述べた。またフランス人権宣言が義務を忘れていると非難し、国民主権は人間主権であって限度を知らず、人間の自由と権利を侵すとも論じた。十九世紀のロシアの哲学者ウラジーミル・ソロヴィヨフから大きな影響を受け、亡命ロシア人の神学者パーヴェル・エフドキーモフには逆に大きな影響を与えた。日本でも『歴史の意味』『ドストエフスキーの世界観』『孤独と愛と社会』『現代の終末』『ロシア共産主義の歴史と意味』などが翻訳されている。
同じ年に亡くなった人物
- フォルケ・ベルナドッテ (1948年没)
- アルトゥール・リーベヘンシェル (1948年没)
- アキーレ・ヴァルツィ (1948年没)
- C・オーブリー・スミス (1948年没)
- クルト・シュヴィッタース (1948年没)
同じ地域に関係する人物
- ベルナール・ブリエ (1989年没)
- ローズ・ベルタン (1813年没)
- ジャック・ルーフィオ (2016年没)
- ジャン=ピエール・ブラン (2004年没)
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