伝記
ジョージ・ハーマン・ルース・ジュニア、通称ベーブ・ルースは、1895年2月6日にアメリカ合衆国メリーランド州ボルチモアのピッグタウンで生まれた。ドイツ系移民の両親は酒場を営み、一家はその2階で暮らしていた。母ケイトは9人の子を産んだが、成人したのはルースと5歳下の妹マミーの2人だけだった。母は病弱で、父は酒場の仕事に追われて息子の面倒を見られず、少年は学校をさぼって街をうろつき、喧嘩や万引き、飲酒、喫煙を重ねたという。
7歳のころには両親の手に負えなくなり、全寮制の矯正学校兼孤児院であるセント・メアリー少年工業学校に送られ、そこで12年を過ごした。ここで出会ったカトリックの修道士マティアス・バウトラーは、勉強や洋服の仕立てのほか、野球のルールや打撃、守備を教えた。ルースは生涯にわたって彼を恩師と仰ぎ、内股で足を引きずる歩き方もその真似が抜けなくなったものだという。野球部のエースとして知られるようになった1914年2月14日、19歳のルースはオリオールズのジャック・ダンと年俸600ドルで契約した。世間知らずなところのあった彼は、仲間から「ダンの新しいベーブ(赤ちゃん)」と揶揄され、このあだ名は生涯残った。
同じ1914年の7月にボストン・レッドソックスへ移り、7月11日のデビュー戦で初登板初勝利を挙げた。層の厚い球団で登板機会が少なく、のちにマイナーリーグへ降格されたが、10月にはウェイトレスのヘレン・ウッドフォードと結婚している。翌1915年には先発ローテーションに入って18勝8敗、打率.315、本塁打4本を記録し、1916年には23勝12敗、防御率1.75、9完封とリーグ1位の成績を残した。チームはワールドシリーズを制し、1916年のブルックリン戦でルースは14イニングを1失点で投げ抜いた。1917年も24勝を挙げたが、6月には先頭打者に四球を与えたあと怒って審判を殴り、10試合の出場停止処分を受けた。1918年には13勝7敗、11本塁打で初の本塁打王となり、ワールドシリーズでは29回3分の2の連続無失点を記録した。この記録は1961年にホワイティー・フォードが破るまで続いた。
ルースの関心は次第に打撃へ移り、1918年ごろから外野を守る機会が増えた。かつての同僚トリス・スピーカーは、この転向が選手生命を縮めると見ていたが、ルースは打者の道を選んだ。1919年には29本塁打を放って当時のシーズン最多記録を更新し、飛ばないボールの時代を終わらせる出来事となった。その年のオフ、レッドソックスのオーナーのハリー・フレイジーは球団経営をめぐる論争のなかでルースをヤンキースに売り渡した。球団がその後86年にわたってワールドシリーズを制せなかったことは、ボストンのファンを中心に「バンビーノの呪い」のせいだと語られた。ヤンキース移籍後の15年間で、ルースは7度のリーグ優勝と4度のワールドシリーズ制覇に貢献し、ある年には60本塁打を放って自身の記録を更新した。
1935年のシーズンを最後にヤンキースを去り、翌年ボストン・ブレーブスに短期間在籍して引退した。通算714本塁打、2213打点、本塁打王12回などの記録を残し、1936年には最初のアメリカ野球殿堂入りを果たした1人となった。一方、飲酒や女遊びが原因で、引退後は監督への道を拒まれた。晩年は第二次世界大戦でアメリカの努力を支持するなど公の場に姿を見せた。病を患い、1948年8月16日に世を去った。のちにトランプ大統領から大統領自由勲章を追贈され、日本でも長く伝記漫画の定番となっている。
同じ年に亡くなった人物
- ヨハネス・ブラスコヴィッツ (1948年没)
- アルベール・セガン (1948年没)
- アキーレ・ヴァルツィ (1948年没)
- ウゼイル・ハジベヨフ (1948年没)
- 鈴木貫太郎 (1948年没)
同じ地域に関係する人物
- ウィリアム・ヒッキー (1997年没)
- ハーバート・ハウプトマン (2011年没)
- オスカー・ルイス (1970年没)
- スティーヴ・ディッコ (2018年没)
- ダニエル・マニング (1887年没)