HISTORICAL PERSON · 1948年没

フランツ・レハール

オーストリア=ハンガリー帝国生まれの作曲家。ウィーンでオペレッタ作曲家となり、1905年の『メリー・ウィドウ』で人気を得て、『ルクセンブルク伯爵』などを発表した。

生涯
1948年没
死亡地
オーストリア共和国(オーバーエスターライヒ州 / バート・イシュル)
出生地
ハンガリー(コマーロム)
出典
世界地図
オーストリア共和国(オーバーエスターライヒ州)

伝記

フランツ・レハールは、1870年4月30日にハンガリー王国のコマーロムで生まれた作曲家である。父は同名のフランツで、モラヴィア地方からの移住者だったが、オーストリア=ハンガリー帝国軍の軍楽隊長として帝国内を転任して歩いた。母クリスティーネ・ノイブラントはハンガリーに代々住むドイツ系の家の出で、長男のレハールは12歳になるまでハンガリー語しか話さずに育ったという。

プラハ音楽院ではヴァイオリンをアントニーン・ベネヴィッツに学び、アントニーン・ドヴォルザークからは作曲に専念するよう勧められた。しかし当時の規則では演奏と作曲を同時に学べず、教師と父に説得されて、不本意ながらヴァイオリンで学位を取った。作曲はズデニェク・フィビヒのもとでひそかに受けた数回の指導のほかは独学だったとされる。1888年の卒業後は、ウィーンで父の楽団の副楽長となり、2年後にはロションツの楽長に就いて、帝国軍で最も若い軍楽隊長になった。のちに海軍に移ってポーラで楽長を務めたが、1896年に最初のオペラ『ククシュカ』がライプツィヒで初演されるとこの職を辞した。評価は中程度にとどまり、再び陸軍に戻って、トリエステ、ブダペスト、ウィーンの駐屯地で勤務した。1902年にウィーンのアン・デア・ウィーン劇場の指揮者となり、同年11月に同劇場で『ウィーンの女たち』が上演された。

1905年の『メリー・ウィドウ』で一躍人気作曲家となり、1909年には同系統の喜劇『ルクセンブルク伯爵』を発表した。その後は作風を転換し、笑いを交えつつ基本はシリアスに進む独自の形を確立していく。1925年の『パガニーニ』、1927年の『ロシアの皇太子』、1929年の『微笑みの国』は悲劇的な結末を採り、この路線はウィーンでは必ずしも歓迎されず、上演の拠点はベルリンに移された。テノール歌手リヒャルト・タウバーとも深く結びつき、1925年から1934年にかけて彼の声のために6作のオペレッタを書いた。1935年には自らの出版社を設けて上演権の管理を強めた。1934年に総監督クレメンス・クラウスの依頼でウィーン国立歌劇場のために『ジュディッタ』を書き上げたのを最後に、筆を折った。

ナチス政権との関係は複雑だった。妻ゾフィーは旧姓パシュキスといい、ユダヤ人の生まれで結婚に際してカトリックに改宗していたため、夫妻は敵意にさらされたが、ヒトラーが『メリー・ウィドウ』を好んだこともあり、ゲッベルスの介入で状況は和らぎ、1938年に妻は名誉アーリア人の扱いを受けた。ユダヤ人の台本作者フリッツ・レーナー=ベーダの身の安全を求めたとされるが果たせず、ベーダは1944年にアウシュヴィッツで亡くなった。レハールはヒトラーから勲章も受けており、戦後はナチスへの協力者としてオーストリアや西ドイツで非難された。第二次世界大戦後の1948年10月24日、夏の住まいとしていたバート・イシュルで78歳の生涯を閉じ、同地に葬られた。ウィーンには記念像があり、『メリー・ウィドウ』の「ヴィリアの歌」や『微笑みの国』の「君こそ我が心のすべて」は、今も広く歌い継がれている。

同じ年に亡くなった人物

同じ地域に関係する人物