伝記
ゲオルギイ・イヴァノヴィチ・グルジエフは、一般に「ワーク」として知られる精神的な取り組みを主導し、著述家、舞踏作家、作曲家としても知られた人物である。ギリシア系の父とアルメニア系の母のもと、当時ロシア領だったアルメニアのアレクサンドロポル(現在のギュムリ)に生まれた。生年は公文書の記録が一貫せず諸説あり、伝記作家のジェイムス・ムアは1866年としている。父は裕福な羊飼いだったが、牛疫で多くの羊を失って困窮し、小さな木工場を始めた。少年は家業を手伝い、各種の工芸や小さな商いで家計を助けた。父は吟遊詩人でもあり、グルジエフ自身の著作によれば、父から聞いたギルガメシュ叙事詩が「失われた古代の叡智」への関心の一つのきっかけとなったという。
1910年代にロシアに現れるまでの前半生は、本人の自伝的な記述からしかうかがえない。その中心となる『注目すべき人々との出会い』も、完全な事実の記録とは考えにくいとされる。それによれば、露土戦争後にロシア領となったカルスで学校に通い、聖歌隊に入って、カルス陸軍大聖堂のボルシュ神父を最初の師とした。古都アニの廃墟で友人と古文書を掘り出したことが、アジアの辺境をめぐる長い旅の始まりとなり、エジプトでは同じ目的をもつ年長の探求者たちに出会って「真理の探求者たち」というグループを結成したという。彼は中央アジアの奥地などへ探検をくり返し、遺跡の発掘や隠された僧院の訪問、伝承、象徴、音楽、舞踏の研究を行った。さらに催眠という現象に注目し、戦争や内乱のなかであらわれる集団心理の弱さを解き明かそうとして、あえて動乱の地に身を置いたと語っている。この時期の活動には民族運動やグレート・ゲームとの関係をめぐる憶測が絶えないが、決定的な確証には乏しい。
1912年に放浪を終えたグルジエフは、モスクワで小さなグループを指導し始め、ユリア・オストワスカと結婚した。1915年には精神世界の専門家として知られていたピョートル・ウスペンスキーと出会い、のちにウスペンスキーの『奇跡を求めて』に収められる理論の基礎は、このころの講義にあった。ロシア革命と内戦が広がると、グルジエフは1918年に金鉱探検を口実に許可を得て、妻や弟子たちを連れて徒歩でコーカサスを越え、ソチにたどり着いた。1919年にチフリスで学院を設立し、のちにムーヴメンツと呼ばれる神聖舞踏を初めて公演した。1920年にはコンスタンチノープルへ、1921年にはベルリンへ移り、1922年7月にパリに入って、秋にはフォンテーヌブロー近くのシャトー・プリオーレに居を定めた。ここで肉体労働、音楽、舞踏、講義を組み合わせた「人間の調和的発展」のための実践が本格的に始まった。
作家キャサリン・マンスフィールドは結核の末期に学院を訪れ、1923年1月12日にそこで亡くなった。この出来事は学院に対する悪意ある風評を招いた。1924年にグルジエフはアメリカで注目を集めたが、同年に自動車事故で重傷を負い、学院の閉鎖を宣言した。回復後は活動を縮小して執筆に専念し、『ベルゼバブが孫に語った物語』に始まる三部作を書いた。これらは死後に正式に出版された。1926年には妻を癌で失い、同じころ母も亡くなった。グルジエフは1949年10月29日に世を去った。
同じ年に亡くなった人物
- クラレンス・キングスバリー (1949年没)
- エドワード・ソーンダイク (1949年没)
- フリッツ・ヘーガー (1949年没)
- アンリ・マンガン (1949年没)
- アフメトジャン・カスィミ (1949年没)
同じ地域に関係する人物
- マドレーヌ・ブレ (1921年没)
- ドロシー・ジョーダン (1816年没)
- ルイ・アシェット (1864年没)
- フランソワ・ルクレール・デュ・トランブレー (1638年没)
- ポール・パシー (1940年没)